発熱のせいか身体のバランスがうまくとれない。こんなこと初めてだ。(哲




2008ソスN7ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1872008

 紅の花枯れし赤さはもうあせず

                           加藤知世子

の花が夏に枝の先に黄色の花をつけ、しだいに赤色に変化してゆく。赤色になった紅の花はやがて枯れてしまうが、枯れてしまった赤さはもう色褪せることはないと作者は事実を言う。これは事実だが作者の思いに聞こえる。どういう思いか。それは命が失われてもその赤が永遠に遺されたという感動の吐露である。花の色はそのまま人間の生き方の比喩になる。眼前の事物を凝視することから入って、人生の寓意に転ずる。これは「人間探求派」と呼称された俳人たち、特に加藤楸邨、中村草田男の手法について言われてきたことだ。「人間探求派」の出現の意義は反花鳥諷詠、反新興俳句にあった。だから従来の俳趣味に依らず、近代詩的モダニズムに依らずの新しいテーマとして、写実を超えたところに「文学的」寓意を意図したのだった。加藤楸邨理解としてのこの句に盛られた寓意は手法として納得できる。一方で楸邨は「赤茄子の腐れてゐたるところより幾許もなき歩みなりけり」の齋藤茂吉の短歌を自分の目標として明言している。茂吉の腐れトマトの赤は寓意に転じない。もっと視覚的で瞬間的な事物との接触である。この知世子句のような地点の先に何があるのか、そこを探ることが「人間探求」の新しい歴史的意味を拓いていくことになる。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


July 1772008

 炎天より入り来し蝶のしづまらず

                           松村禎三

戸さえろくになかった昔、暑くなってくれば縁側のガラス戸を全開にして庭からの風を招き入れた。くらっとくる炎天の明るさに比べ、軒深く電気をつけない家の座敷は暗かった。白昼の家はひっそりと物音もせず、箪笥の向こう側や廊下の陰に誰かが潜んでいそうで、一人で留守番するのが怖かった。掲句の情景には覚えがある。蝶だけではない、スズメやカナブンなど、いろんな生き物が家の中に入ってきた。今まで自分が自由に振舞っていた世界とは明らかに異質の空間に迷い込んだことに、驚いているのは迷い込んだ生き物自身だろうが、いたずらに騒いで見当違いな場所へ身体と打ちつけるばかりで、なかなか外へ出ることが出来ない。暗い部屋に飛びこんできた蝶の動きを目で追っている作者。結核にかかり音楽家としての将来を一時断念するかたちで若くして療養所に入らなければならなかった彼は、音楽の師池内友次郎の導きで俳句をはじめた。希望にあふれた人生から一転、病臥療養の生活へ追い込まれた自身の焦燥感を行き場を失った蝶に重ねているのか、いつまでも静まらない蝶の羽ばたきを凝視している作者の視線を感じる。『松村禎三句集』(1977)所収。(三宅やよい)


July 1672008

 雲ひとつ浮かんで夜の乳房かな

                           浅井愼平

季句。季語はないけれども厳寒の冬ではなく、春あるいは夏の夜だろうと私には思われる。まだ薄あかるく感じられる夜空に、白い雲が動くともなくひとつふんわりと浮かんでいる。雲というものは人の顔にも、動物の姿などにも見てとれることがあって、それはそれでけっこう見飽きることがない。雲は動かないように見えていて、表情はそれとなく刻々に変化している。この句の場合、雲はふくよかな乳房のように愼平には感じられたのであろう。対象を見逃さない写真家の健康な想像力がはたらいている。遠い夜空に雲がひとつ浮かんでいて、さて、目の前には豊かな乳房があらわれている――という情景ととらえてもよいのかも知れない(このあたりの解釈は分かれそうな気がする)。そうだとしても、この句にいやらしさは微塵もない。夜空の雲を見あげる写真家の鋭いまなざしと、豊かな想像力が同時に印象深く感じられる。カメラのピントもこころのピントもぴたりと合っていて、確かなシャッターの音までもはっきりと聞こえてきそうである。「色のなき写真の中のレモンかな」という別の句にも、同様に写真家によるすっきりした構図といったものが無理なく感じられる。『夜の雲』(2007)所収。(八木忠栄)




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