こういう店には入らないほうだけど、なんとなく気にはなっている。(哲




2008ソスN7ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1672008

 雲ひとつ浮かんで夜の乳房かな

                           浅井愼平

季句。季語はないけれども厳寒の冬ではなく、春あるいは夏の夜だろうと私には思われる。まだ薄あかるく感じられる夜空に、白い雲が動くともなくひとつふんわりと浮かんでいる。雲というものは人の顔にも、動物の姿などにも見てとれることがあって、それはそれでけっこう見飽きることがない。雲は動かないように見えていて、表情はそれとなく刻々に変化している。この句の場合、雲はふくよかな乳房のように愼平には感じられたのであろう。対象を見逃さない写真家の健康な想像力がはたらいている。遠い夜空に雲がひとつ浮かんでいて、さて、目の前には豊かな乳房があらわれている――という情景ととらえてもよいのかも知れない(このあたりの解釈は分かれそうな気がする)。そうだとしても、この句にいやらしさは微塵もない。夜空の雲を見あげる写真家の鋭いまなざしと、豊かな想像力が同時に印象深く感じられる。カメラのピントもこころのピントもぴたりと合っていて、確かなシャッターの音までもはっきりと聞こえてきそうである。「色のなき写真の中のレモンかな」という別の句にも、同様に写真家によるすっきりした構図といったものが無理なく感じられる。『夜の雲』(2007)所収。(八木忠栄)


July 1572008

 火曜日は原則としてプールの日

                           山本無蓋

日火曜日。「原則として」などといかめしく始まる斡旋に、わが火曜日に何ごとが起こるのかと身構えてみれば、ごくカジュアルに「プールに行く日」なのだという。作者が大真面目であればあるほど、とぼけたおかしみに吹き出しながら、ここは火曜日に発見があるのではないかと気づく。月曜日の憂鬱もなく、週末への期待にもほど遠く、一週間のなかでもっとも意味を持たれにくい曜日である。日曜日に市場に出かけ〜♪で始まるおなじみのロシア民謡『一週間』でも、月曜日にせっせと準備したお風呂に、火曜日はただ入るだけという気楽な設定である。まったく印象の薄い曜日だと納得していたが、最近「スーパーチューズデー」で一躍火曜日が注目された。アメリカ合衆国では選挙投票日が必ず火曜日に設定されている。これは19世紀半ばから続く慣習で、キリスト教では日曜日が安息日とされていることから、月曜日に投票場へと出発し、どんなに遠隔地からでも火曜日には到着しているあろうという、なんとも先のロシア民謡的ゆるやかな理由からなるものだった。ともあれ、火曜日は予定もなんとなく空いているような虚ろな曜日であることは間違いなく、掲句も心に固く決めておかないと突発的残業やら突発的飲み会などの優先順位についつい負けてしまうのだろうな。『歩く』(2008)所収。(土肥あき子)


July 1472008

 向日葵に路面電車の月日かな

                           藤城一江

年も、向日葵が勢いよく咲く季節になった。向日葵に限らず夾竹桃も百日紅なども、夏の花はみな元気だ。そんな向日葵が咲きそろった舗道を、路面電車が通過していく。この電車、相当に古びているのだろう。レール音も、心なしか喘いでいるように聞こえる。この街に住んで長い作者は、その昔、まだ電車が向日葵を睥睨するようにして、颯爽と走っていた時代を知っているのだ。それが年を経るうちに、いつしか立場は逆転して、いまや路面電車に精気はほとんど感じられない。かたや向日葵は、毎夏同じように精気にあふれているのだから、いやでも電車の老朽化を認めないわけにはいかなくなってきた。すなわち、それは作者自身の老齢化の自己認知にもつながっているのであり、なんでもないようなありふれた光景にも、このように感応する人は感応しているのである。路面電車といえば、広島市内には、かつての各地の路面電車の車両が当時そのままの姿で走っている。以前同市を訪れた際に、あまりの懐かしさに行く宛もないまま、昔の京都スタイルの市電に乗ってしまったのだった。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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