会社のある高田馬場から若者の姿が減った。早稲田が夏休みに入ったのかな。(哲




2008ソスN7ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1472008

 向日葵に路面電車の月日かな

                           藤城一江

年も、向日葵が勢いよく咲く季節になった。向日葵に限らず夾竹桃も百日紅なども、夏の花はみな元気だ。そんな向日葵が咲きそろった舗道を、路面電車が通過していく。この電車、相当に古びているのだろう。レール音も、心なしか喘いでいるように聞こえる。この街に住んで長い作者は、その昔、まだ電車が向日葵を睥睨するようにして、颯爽と走っていた時代を知っているのだ。それが年を経るうちに、いつしか立場は逆転して、いまや路面電車に精気はほとんど感じられない。かたや向日葵は、毎夏同じように精気にあふれているのだから、いやでも電車の老朽化を認めないわけにはいかなくなってきた。すなわち、それは作者自身の老齢化の自己認知にもつながっているのであり、なんでもないようなありふれた光景にも、このように感応する人は感応しているのである。路面電車といえば、広島市内には、かつての各地の路面電車の車両が当時そのままの姿で走っている。以前同市を訪れた際に、あまりの懐かしさに行く宛もないまま、昔の京都スタイルの市電に乗ってしまったのだった。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


July 1372008

 子が沈め母がしづめて浮人形

                           成田清子

のとしては知っていても、そこにきちんとした名前があてがわれていることを知りませんでした。言葉があとからやってくる、という体験を、この歳になってもするものだなと、思いました。子供の頃に行水や風呂に入って浮かばせて遊んだおもちゃを、「浮人形」と言うのかと、あらためて日本語のひそやかさに感心しました。歳時記にもその記載がありますが、ビニール製のものよりも、やはり思い出すのはブリキ製の金魚でしょうか。毒々しいまでに濃く色づけられた目の大きな金魚の顔を、今でも覚えています。句は、夏の日盛りの下の行水ではなく、日が落ちてからの風呂場の光景のようです。一日の汗をぬぐって、母親と小さな子供が風呂に入っています。どんな場所も遊び場にしなければ気がすまない子供が、浮人形に興じています。けれど、目の前の水面に浮いているものがあれば、母親とて、手のひらで上から押して沈めてみたいという気持ちがおきます。子供の直接的な「沈め」という動作を、わざわざひらがなの「しづめ」と書き換えているところに、母親のおもむろな動きを感じます。浮き上がろうとするおもちゃの力を、心地よく感じながら、同じ動作を子供と幾度も繰り返します。飛び上がるように浮いてくるおもちゃの勢いのよい姿は、それだけでその日の鬱屈を、いくらかは鎮めてくれているようです。『角川 俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


July 1272008

 干梅や家居にもある影法師

                           山本洋子

供の頃に住んでいた家には梅の木があり、毎年たくさんの実をつけた。縁側にずらりと梅の実が干されていたのは梅雨が明けてから、もうすぐ夏休みという、一年で一番わくわくする時期だったように思う。この句の梅は、外に筵を敷いて干されているのだろう。小さな梅の実にはひとつずつ、濃い影ができている。影は、庭の木に石に、ひとつずつじっと寄りそい、黒揚羽と一緒にやぶからしのあたりをひらひらしている。干している梅の実がなんとなく気にかかって、日差しの届いている縁側あたりまで出てくると、それまでひんやりとした座敷の薄暗がりの中でじっとしていた影法師が姿を見せる。影法師という表現は、人の影にだけ使われるという。寓話の世界では、二重人格を象徴するものとして描かれたりもするが、じっと佇んで影法師を見ていると、どこにでもついてくる自らの形を忠実に映している黒々としたそれが、自分では気がついていない心の奥底の何かのようにも思えてくる。『木の花』(1987)所収。(今井肖子)




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