槇原敬之と松本零士の著作権対立。ノー天気な「歌詞」をめぐり馬鹿みたい。(哲




2008ソスN7ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1072008

 青芒川風川にしたがはず

                           上田五千石

の句を読んだときいっぺんに目の前がひらける感じがした。山登りでちょっとした岩場に出て今まで林に閉ざされていた景色がパノラマで広がる、そんなすがすがしさと似ている。自然を描写した句は多いけど、すかっと気分がよくなる吟行句は案外少ない。川そばの青芒が強い川風にいっせいになびいている。その風向きと川が流れてゆく方向が違う。と、字面だけを追ってゆくと理屈だけになってしまうこの句のどこに引かれるのだろう。川の流れが一望できる高台で、視覚だけでなく頬を打つ風の感触で作者は眺望を捉えているのだ。夏の日にきらめく川の流れる方向に心を乗せて、かつ青芒をなびかせる風を同時に感じた時ひらめいた言葉が作者の身体を走ってゆく。リズムのよいこの句のすがすがしさは、広がる景の空気感を言葉で捉えなおした作者の心の弾みがそのままこちらに伝わってくるからだろう。その時、その場でしか得られない発見の喜びが景の描写に輝きと力を加えているように思う。『遊山』(1994)所収。(三宅やよい)


July 0972008

 蝉しぐれ捨てきれぬ夢捨てる夢

                           西岡光秋

歳になっても夢をもちつづける人は幸いである。しかし、一つの夢を実現させたうえで、さらに新たな夢をもつこともあれば、一つの夢をなかなか果せないまま齢を重ねてしまう、そんな人生も少なくない。掲出句の場合は、後者のように私には思われる。捨てきれない夢だから、なかなかたやすく捨てることはできない。たとえ夢のなかであっても、その夢を捨てることができれば、むしろホッと安堵できるのかもしれない。それはせめてもの夢であろう。けれども、現実的にはそうはいかないところに、むしろ人間らしさがひそんでいるということになるか。外は蝉しぐれである。うるさいほどに鳴いている蝉の声が、「夢ナド捨テロ」とも「夢ハ捨テルナ」とも迫って聴こえているのではないか。中七・下五は「捨てきれぬ夢」と「捨てる夢」の両方が、共存しているという意味なのではあるまい。それでは楽天的すぎる。現実的に夢を捨てることができないゆえ、せめて夢のなかで夢を捨ててしばし解放される。そこに若くはない男の懊悩を読むことができる。だから二つの夢は別次元のものであろう。手元の歳時記に「蝉時雨棒のごとくに人眠り」(清崎敏郎)という句があるが、「棒のごとくに」眠れる人はある意味で幸いなるかな。光秋には「水打つて打ち得ぬ今日の悔一つ」という句もある。『歌留多の恋』(2008)所収。(八木忠栄)


July 0872008

 夏ぐれは福木の路地にはじまりぬ

                           前田貴美子

ぐれは、夏の雨、それも「ぐれ=塊」と考えられることから、スコールを思わせる勢いある雨をいう。潤い初めるが語源という「うりずん」を経て、はつらつと生まれたての夏を感じる「若夏(ワカナチ)」、真夏の空をひっくり返すような「夏ぐれ(ナチグリ)」、そしてそろそろ夏も終わる頃に吹く「新北風(ミイニシ)」と季節は移る。うっかりすると盛夏ばかり続くように思える沖縄だが、南国だからこそ豊かで魅力的な夏の言葉の数々が生まれた。福木(フクギ)もまた都心では聞き慣れない樹木だが、沖縄では街路樹などにもよく使われているオトギリソウ科の常緑樹である。以前沖縄を旅していると、友人が「雨の音がするんだよ」と福木の街路樹を指さした。意識して耳を傾ければ、頑丈な丸い葉と葉が触れ、パラパラッというそれは確かに降り始めの雨音に似ていた。わずかな風でも雨の音を感じさせる木の葉に、実際に大粒の雨が打ち付けることを思えば、それはさぞかし鮮烈な音を放つだろう。激しい雨はにぎやかな音となって、颯爽と路地を進み、さとうきび畑を分け、そしてしとどに海を濡らしている。〈若夏や野の水跳んで海を見に〉〈我影に蝶の入りくる涼しさよ〉〈甘蔗時雨海をまぶしく濡らしけり〉跋に同門であり、民俗学に精通する山崎祐子氏が、本書に使用されている沖縄の言葉についてわかりやすい解説がある。『ふう』(2008)所収。(土肥あき子)




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