阪神早くもCS進出マジック「55」点灯。このCSがクセモノでして。(哲




2008ソスN7ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0972008

 蝉しぐれ捨てきれぬ夢捨てる夢

                           西岡光秋

歳になっても夢をもちつづける人は幸いである。しかし、一つの夢を実現させたうえで、さらに新たな夢をもつこともあれば、一つの夢をなかなか果せないまま齢を重ねてしまう、そんな人生も少なくない。掲出句の場合は、後者のように私には思われる。捨てきれない夢だから、なかなかたやすく捨てることはできない。たとえ夢のなかであっても、その夢を捨てることができれば、むしろホッと安堵できるのかもしれない。それはせめてもの夢であろう。けれども、現実的にはそうはいかないところに、むしろ人間らしさがひそんでいるということになるか。外は蝉しぐれである。うるさいほどに鳴いている蝉の声が、「夢ナド捨テロ」とも「夢ハ捨テルナ」とも迫って聴こえているのではないか。中七・下五は「捨てきれぬ夢」と「捨てる夢」の両方が、共存しているという意味なのではあるまい。それでは楽天的すぎる。現実的に夢を捨てることができないゆえ、せめて夢のなかで夢を捨ててしばし解放される。そこに若くはない男の懊悩を読むことができる。だから二つの夢は別次元のものであろう。手元の歳時記に「蝉時雨棒のごとくに人眠り」(清崎敏郎)という句があるが、「棒のごとくに」眠れる人はある意味で幸いなるかな。光秋には「水打つて打ち得ぬ今日の悔一つ」という句もある。『歌留多の恋』(2008)所収。(八木忠栄)


July 0872008

 夏ぐれは福木の路地にはじまりぬ

                           前田貴美子

ぐれは、夏の雨、それも「ぐれ=塊」と考えられることから、スコールを思わせる勢いある雨をいう。潤い初めるが語源という「うりずん」を経て、はつらつと生まれたての夏を感じる「若夏(ワカナチ)」、真夏の空をひっくり返すような「夏ぐれ(ナチグリ)」、そしてそろそろ夏も終わる頃に吹く「新北風(ミイニシ)」と季節は移る。うっかりすると盛夏ばかり続くように思える沖縄だが、南国だからこそ豊かで魅力的な夏の言葉の数々が生まれた。福木(フクギ)もまた都心では聞き慣れない樹木だが、沖縄では街路樹などにもよく使われているオトギリソウ科の常緑樹である。以前沖縄を旅していると、友人が「雨の音がするんだよ」と福木の街路樹を指さした。意識して耳を傾ければ、頑丈な丸い葉と葉が触れ、パラパラッというそれは確かに降り始めの雨音に似ていた。わずかな風でも雨の音を感じさせる木の葉に、実際に大粒の雨が打ち付けることを思えば、それはさぞかし鮮烈な音を放つだろう。激しい雨はにぎやかな音となって、颯爽と路地を進み、さとうきび畑を分け、そしてしとどに海を濡らしている。〈若夏や野の水跳んで海を見に〉〈我影に蝶の入りくる涼しさよ〉〈甘蔗時雨海をまぶしく濡らしけり〉跋に同門であり、民俗学に精通する山崎祐子氏が、本書に使用されている沖縄の言葉についてわかりやすい解説がある。『ふう』(2008)所収。(土肥あき子)


July 0772008

 花火尽き背後に戻る背後霊

                           加藤静夫

える句だ。霊界にはからきし不案内だが、ネットで拾い読みしたところでは、背後霊は守護霊の子分みたいな位置づけらしい。どんな人にも当人を守る守護霊一体がついているのだが、守護霊一体だけでは本人の活動範囲全般にわたって効果的に守護することは難しいので、守護霊を補佐するような形で背後霊がついている。背後霊は二、三体いるのが普通で、たいていは先祖の誰かの霊なのだそうだ。この句では、それがあろうことか花火見物(手花火をやっているのかもしれないが、同じことだ)に来ている当人をさしおいて、背後から前面に出て見ほれてしまい、打ち上げが終わったところであわてて所定の位置である背後に戻って行ったと言うのである。背後霊は神ではないので、こんなこともやりかねない。花火に夢中になっている間に財布をすられるなんぞは、たいてい背後霊がこんなふうに持ち場を離れたせいなのだろう。しかし背後霊は先祖の誰かのことが多いのだから、あまり文句を言うわけにもいかないし……。作者は、ユーモア感覚を詠みこむのが巧みな人だ。こういう句を読むと、俳句にはもっともっと笑いの要素やセンスが取り込まれるべきだと思う。蛇足ながら、自分の背後霊を具体的に教えてくれるサイトがある。むろん先祖の名が出てくるのではないけれど、興味のある方はここからどうぞ。『中肉中背』(2008)所収。(清水哲男)




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