伊香保で木暮陶句郎さんにロクロを回させてもらった。生まれてはじめてです。(哲




2008ソスN6ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2362008

 いつせいに子らゐなくなる夏座敷

                           金子 敦

戚一同が集まっての法事の座敷だろうか。私にも何度も体験はあるが、故人にさして思い入れがない場合には、ゆっくりと進行する決まりごとに、大人でもいらいらするときがある。ましてや子供にとっては退屈千万。窓の外は日差しが強く、室内が明るいだけに、余計に苛々してしまうのだ。それでも神妙なふりをして坊さんの読経などを聞いているうちに、やっと式次第が終了し、さあ子供は外で遊んできてもいいよということになる。むろん、しびれをきらしていた子供らはまさに「いっせいに」外に出て行ってしまう。残る子なんて、いやしない。なんということもない情景ではあるけれど、この句は実は大人も同時に解放された気分が隠し味になっているのであって、そこらへんが実に巧みに詠まれている。余談めくが、しかし何かとわずらわしい子供らがこういう場所に集まることそれ自体が、この親族一同にとっての盛りの時期だったことが、後になるとよくわかってくる。少子化ということもあり、こんな情景も今ではなかなかお目にかかれなくなってきているのかもしれない。『冬夕焼』(2008)所収。(清水哲男)


June 2262008

 退職の言葉少なし赤き薔薇

                           塚原 治

い頃は、人と接するのがひどく苦手でした。多くの人が集まるパーティーに出ることなど、当時の自分には想像もつかないことでした。けれど、勤め人を35年もしているうちに、気がつけばそんなことはなんでもなくなっていました。社会に出て働くということは、単に事務を執ることだけではなく、職場の人々の中に、違和感のない自分を作り上げる能力を獲得することでもあります。ですから、たいていの人は知らず知らずのうちに、人前で挨拶をしろといわれれば、それなりに出来るようになってしまうものです。しかし時には、何年勤めても、そういったことに慣れることのできない人がいます。この句を読んで感じたのは、もくもくと働いてきた人が、定年退職を前に、最後の挨拶を強いられている場面でした。その人にとっては、何十年間を働きあげることよりも、たった一度の人前での挨拶のほうが、苦痛であったのかもしれません。幾日も前から、その瞬間を考えては悩んでいたのです。言葉につまる当人を前に、周りを囲んでいる人たちも気が気ではないのです。言葉などどうでもいい、もうなにも言わなくてもいいからという思いでいっぱいなのです。はやく大きな拍手でたたえて、見事に咲き誇った薔薇を、熱く手渡したかったのです。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2008年6月16日付)所載。(松下育男)


June 2162008

 しんしんと離島の蝉は草に鳴く

                           山田弘子

京は今梅雨真っ盛りだが、昨年の沖縄の梅雨明けは六月二十一日、今年はもう明けたという。梅雨空は、曇っていても、雨が降っている時でさえ、なんとなくうすうす明るい。そんな空をぼんやり見ながら、その向こうにある青空と太陽、夏らしい夏を待つ心持ちは子供の頃と変わらない。東京で蝉が鳴き始めるのは七月の梅雨明け前後、アブラゼミとニイニイゼミがほとんどで、うるさく暑苦しいのだが、それがまた、こうでなくちゃとうれしかったりもする。この句の蝉は、草蝉という草むらに棲息する体長二センチほどの蝉で、離島は、宮古島だという。ずいぶんかわいらしい蝉だなあと思い、インターネットでその鳴き声を聞いてみた。文字で表すと、ジー、だろうか。鳴き始めるのは四月で、五月が盛りというからもう草蝉の時期は終わっているだろう、やはり日本は細長い。遠い南の島の草原、足元から蝉の声に似た音が立ちのぼってくる。聞けば草に棲む蝉だという。いち早く始まっている島の夏、海風に吹かれ、草蝉の声につつまれながら佇む作者。しんしんと、が深い情感を与えている。句集名も含め、蝉の字は、虫偏に單。『草蝉』(2003)所収。(今井肖子)




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