今日か明日のロッテ戦に、阪神が鶴投手(近大付属高出)を初起用のうわさ大。(哲




2008ソスN6ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1462008

 もの言はず香水賣子手を棚に

                           池内友次郎

田男に、〈香水の香ぞ鉄壁をなせりける〉の句がある。ドレスアップして汗ひとつかいていない美人。まとった香水の強い香りが、彼女をさらに近寄りがたい存在にしているのだろうか。昨今は、汗の匂いの気になる夏でも、そこまで強い香水の香りに遭遇することはほとんどないが、すれ違いざまに惹かれた香りの記憶がずっと残っていたりすることはある。この句は昭和十二年作、「銀座高島屋の中を歩き回った」時詠んだと自注がある。その頃の売り子、デパートガールは、今にも増して女性の人気職業だったというから、まだ二十代の友次郎、商品よりもデパートガールについ目が行きがちであったことだろう。客が香水の名前を告げると、黙って棚のその商品に手を伸ばす彼女。どこに何が置いてあるか熟知しており、迷う様子はない。友次郎は、彼女のきりっとした横顔に見惚れていたのかもしれない。そして、後ろにある棚に伸ばした二の腕の白さに、振り向きざまに見えた少しつんとした表情に、冷房とはまた違った涼しさを感じたのだろう。香水そのものを詠んでいるわけではないけれど、棚に手を伸ばすのは、やはり香水売り子がぴたっとくる。『米壽光来』(1987)所収。(今井肖子)


June 1362008

 ほととぎすすでに遺児めく二人子よ

                           石田波郷

日は6月11日、2日前の夜12時ごろ、ほととぎすの声を聞いた。ここは横浜市磯子区洋光台。山を削って造った新興の住宅地であり、付近はまだまだ緑が多い。夜中に何で鳥が鳴くんだろうと不思議に思って確認したのだった。鳥はしばらく鳴いていた。鳴き声を聞いて、歳時記にあった「テッペンカケタカ」を思い出した。間違いないと思った。僕は山陰の田舎育ちなので、ほととぎすもどこかで必ず聞いていると思うのだが、これと意識したことはない。ほととぎすを聞いて句に詠もうと思うと、他の鳥ではないこれぞまさにほととぎすだという句を詠みたくなる。声の特徴やら空間の季節感やらを素材にして。季題を句のテーマにするということはそういうことだ。その季題の「らしさ」が出るように努める。しかし、そこに「自分」が生きなければ、季題をうまく詠むゲームになってしまわないか。波郷のテーマは自己の境涯に向ける眼と二人子の哀れ。ホトトギスは空間を演出する重要な小道具としての役割。なんとしても夜空のあの声を詠もうと思っていた僕はこの句を思い出し、ホトトギスを聞いて感動している自分のことを詠もうと考えてみた。『惜命』(1950)所収。(今井 聖)


June 1262008

 蛇使ひ淋しい時は蛇を抱き

                           藤村青明

くじけるときに、ぬくもりのあるものを抱くと心が安らぐ。犬にせよ、猫にせよ毛のふわふわした温かい動物は言葉を話さずとも抱きしめれば体温で心を慰めてくれる。その感触からいえば蛇は淋しいときに抱くのに適した動物と思えない。忌み嫌われる動物の代表格だった蛇もこの頃は匂いがない、手がかからないと無機質を好む人達のペットに人気と聞くが、蛇好きの人はまだ少数派だろう。掲句で言えば「抱く」という言葉に違和感がある。あんなつるりとして細いものを抱こうとしても身体と体の隙間があいてすーすー風が吹き抜けてゆくではないか。抱けば抱くほどそのもどかしさに淋しさがつのるではないか。蛇は抱くというより身体に巻きつかせるのがせいぜいだろう。並みの感覚でいえば「抱く」のに悪寒をさそう対象が選択されていることがまず読み手の予想を裏切る。平凡な日常からは遠い世界に棲む蛇使いが抱きしめる蛇は真っ白い蛇が似合いだ。その不思議な映像がしんとした孤独を感じさせる。叙情あふれる詩性川柳を書き綴った作者だが、実生活は不遇で、若くして須磨海岸で溺死したという。『短歌俳句川柳101年』(1993)所載。(三宅やよい)




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