阪神6連勝で40勝到達、西武破り交流戦単独首位に。勝って兜の…。(哲




2008N612句(前日までの二句を含む)

June 1262008

 蛇使ひ淋しい時は蛇を抱き

                           藤村青明

くじけるときに、ぬくもりのあるものを抱くと心が安らぐ。犬にせよ、猫にせよ毛のふわふわした温かい動物は言葉を話さずとも抱きしめれば体温で心を慰めてくれる。その感触からいえば蛇は淋しいときに抱くのに適した動物と思えない。忌み嫌われる動物の代表格だった蛇もこの頃は匂いがない、手がかからないと無機質を好む人達のペットに人気と聞くが、蛇好きの人はまだ少数派だろう。掲句で言えば「抱く」という言葉に違和感がある。あんなつるりとして細いものを抱こうとしても身体と体の隙間があいてすーすー風が吹き抜けてゆくではないか。抱けば抱くほどそのもどかしさに淋しさがつのるではないか。蛇は抱くというより身体に巻きつかせるのがせいぜいだろう。並みの感覚でいえば「抱く」のに悪寒をさそう対象が選択されていることがまず読み手の予想を裏切る。平凡な日常からは遠い世界に棲む蛇使いが抱きしめる蛇は真っ白い蛇が似合いだ。その不思議な映像がしんとした孤独を感じさせる。叙情あふれる詩性川柳を書き綴った作者だが、実生活は不遇で、若くして須磨海岸で溺死したという。『短歌俳句川柳101年』(1993)所載。(三宅やよい)


June 1162008

 蛞蝓の化けて枕や梅雨長き

                           高橋睦郎

や、蛞蝓(なめくじ)の本物になど、なかなかお目にかかることはできなくなった。じめじめした梅雨どき、まあ、今なおいるところにはいるけれど。睦郎の連載「百枕」については、2007年7月にも一句とりあげてコメントしたのでくり返さない。その後媒体に変更があって、現在は小澤實の「澤」に連載されている。掲出句は「梅雨枕」という題のもとに十句発表されたなかのもの。この句とならんで「此處はしも蛞蝓長屋梅雨枕」の一句がある。「蛞蝓長屋」は古今亭志ん生が昔住んだ、知る人ぞ知る「なめくじ長屋」を指している。業平橋近くの湿地帯に建てられたこの長屋に、赤貧洗うが如き志ん生は蛞蝓や蚊柱に悩まされながら、家族と昭和三年から七年間ほど住んだ。一晩で蛞蝓が十能にいっぱいとれたという伝説的な長屋。蛞蝓はおカミさんの足に喰いつき、塩などかけても顎で左右によけて這い、夜にはピシッピシッと鳴いた、と志ん生は語っていた。睦郎は好きだったという志ん生や「なめくじ長屋」にもふれているが、蛞蝓が「枕」に化けるというのだから豪儀な句ではないか。この枕、気持ち悪さを通り越して滑稽千万な味わいがある。「なめくじ長屋」の縁の下あたりには、枕ほどの大きさの蛞蝓の主(ぬし)が息を潜めていたかもしれない。蛞蝓が化けたら、いかにも昔風のごろりとした枕にでもなりそうだ。まさしく梅雨どきのヌラッと湿った枕。「梅雨長き」は時間的長さだけではなく、お化け蛞蝓の「長さ」でもあろう。梅雨・蛞蝓・黴――それらを通過しなければ、乾いた夏はやってこない。「澤」(2008年6月号)所載。(八木忠栄)


June 1062008

 海底のやうに昏れゆき梅雨の月

                           冨士眞奈美

雨の月、梅雨夕焼、梅雨の蝶など、「梅雨」が頭につく言葉には「雨が続く梅雨なのにもかかわらず、たまさか出会えた」という特別な感慨がある。また、前後に降り続く雨を思わせることから、万象がきらきらと濡れて輝く様子も思い描かれることだろう。夕暮れの闇の不思議な明るみは確かに海底の明度である。空に浮かぶ梅雨の月が、まるで異界へ続く丸窓のように見えてくる。ほのぼのと明けそめる暁を「かはたれ(彼は誰)」と呼ぶように、日暮れを「たそかれ(誰そ彼)」と呼ぶ。どちらも薄暗いなかで人の顔が判別しにくいという語源だが、行き交う誰もが暗がりに顔を浸し輪郭だけを持ち歩いているようで、なんともいえずおそろしい。昼と夜の狭間に光りと影が交錯するひとときが、梅雨の月の出現によって一層ミステリアスで美しい逢魔時(おうまがとき)となった。〈白足袋の指の形に汚れけり〉〈産み終へて犬の昼寝の深きかな〉〈噛みしめるごまめよ海は広かつたか〉俳句のキャリアも長い作者の第一句集『瀧の裏』(2008)所収。(土肥あき子)




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