東京に雨の予報。あの暑さの後だから、人間にも慈雨と言えるでしょうね。(哲




2008ソスN5ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2952008

 おにいちゃんおこられながらバラ見てた

                           須田知子

々の門口に美しく咲き誇っていた薔薇も週末の雨でだいぶ散ってしまった。四季咲きの薔薇も多くなっているけど、やはり五月の薔薇が一番美しい。平仮名の表記と幼い口調に、小学生ぐらいの自分に引き戻された。そういえば昔はよく説教をされたっけ。けんかをしたとき、物を壊したとき、怖い顔で怒っている親の顔と正面から向き合っているのは気まずい。とは言え神妙な顔をしていないと、くどくどくどくど説教はいつまでも続く。子供ながらに視線の置き方が難しかった覚えがある。自分は悪くない。と、くやしい気持ちに涙をこらえて頑なに横を向き、関係ないものをじっと見詰めていたときもある。この男の子もきっとそんな気持ちでふと目に止まったバラを見ていたのだろう。それが、そのうちバラの美しさにひきつけられて、怒られていることは忘れてバラに見入っているのかもしれない。そんな兄の変化を少し離れたところからじっと見ている妹。単純なようでバラを中心に、少年の心の変化と家族の情景が鮮明に浮かび上がってくる句だと思う。『さあ現代俳句へ』(1997)所載。(三宅やよい)


May 2852008

 石載せし小家小家や夏の海

                           田中貢太郎

太郎は一九四一年に亡くなっているから、この海辺の光景は大正から昭和にかけてのものか? 夏の海浜とはいえ、まだのどかというか海だけがだだっ広い時代の実景であろう。粗末で小さい家がぽつりぽつりとあるだけの海の村。おそらく気のきいた海水浴場などではないのだろうし、浜茶屋といったものもない。海浜にしがみつくようにして小さな家が点々とあるだけの、ごくありきたりの風景。しかも、その粗末な家の屋根も瓦葺ではなく、杉皮か板を載せて、その上に石がいくつか重しのように載っけられている。いかにも鄙びた光景で、夏の海だけがまぶしく家々に迫っているようだ。「小家小家」が打ち寄せる「小波小波」のようにさえ感じられる。何をかくそう、私の家も昭和二十五年頃まで屋根は瓦葺でもトタンでもなく、大きな杉皮を敷きつめ、その上にごろた石がいくつも載っかった古家だった。よく雨漏りがしていたなあ。貢太郎は高知出身の作家。代表作に『日本怪談全集』があるように、怪談や情話を多く書いた作家だった。そういう作家が詠んだ句として改めて読んでみると、「小家」が何やら尋常のもではないような気もして謎めいてくる。貢太郎の句はそれほど傑出しているとは思われないが、俳人との交際もさかんで多くの句が残されている。「豚を積む名無し小駅の暑さかな」という夏の句もある。「夏の海」といえば、渡邊白泉の「夏の海水兵ひとり紛失す」を忘れるわけにはいかない。『田中貢太郎俳句集』(1926)所収。(八木忠栄)


May 2752008

 打ち返す波くろぐろと梅雨の蝶

                           一 民江

週22日の沖縄の梅雨入りを皮切りに、今年もじわじわと日本列島が梅雨の雲におおわれていく。先日、雨降りのなかで、今までに見た最高に美しい空の思い出を話していたら、「南アルプス甲斐駒ケ岳で見た空は青を通り越して黒く見えた」という方がいた。あまりに透明度が高く、その向こうにある宇宙が透けて見えたのだと思ったそうだ。それが科学的根拠に基づいているのかそうでないかは別として、聞いている全員がふわっと肌が粟立つ思いにかられた。美しさのあまり、見えないはずの向こうが見えてしまうという恐怖を共有したのだった。掲句の波も、見えるはずのない海の奥底を映し出してしまったような恐ろしさがある。そこに梅雨のわずかな晴れ間を見つけ、蝶が波の上を舞う。春の訪れを告げる軽やかな蝶たちと、夏の揚羽などの豪奢な蝶の間で、梅雨の蝶はあてどなく暗く重い。タロットカードに登場する蝶は魂を象徴するという。もし掲句のカードがあったとしたら、「永遠に続く暗雲に翻弄される」とでも言われそうな衝撃の絵札となることだろう。〈よく動く兜虫より買はれけり〉〈梅を干す梅の数だけ手を加へ〉〈送り火のひとりになつてしまひけり〉『たびごころ』(2008)所収。(土肥あき子)




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