2008ソスN5ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2352008

 のみとりこ存在論を枕頭に

                           有馬朗人

取粉の記憶はかすかにある。丸い太鼓型の缶の真中をパフパフと指でへこませて粉を出す。蚤はそこら中にいた。犬からも猫からもぴょんぴょん跳ねるところがよく見えた。犬を洗うときは尻尾から洗っていってはいけない。水を逃れて頭の方に移動した蚤が最後は耳の中に入り込み犬は狂い死ぬ。かならず頭から洗うんだぞ。そうすれば蚤は尻尾からぴょんぴょんと逃げていくと父は言った。父は獣医だったので、この恐ろしい話を僕は信じ、洗う順序を取り違えないよう緊張して実行したが、ほんとうだったのだろうか。蚤取粉を傍らに「存在」について書を読み考えている。蚤というおぞましくも微小なる「存在」と存在論の、アイロニカルだがむしろ俗なオチのつくつながりよりも、アカデミズムの中に没頭している人間が蚤と格闘しているという生活の中の場面が面白い。西田幾多郎も湯川秀樹も蚤取粉を枕頭に置いてたんだろうな、きっと。『花神コレクション・有馬朗人』(2002)所収。(今井 聖)


May 2252008

 魚屋に脚立などあり夕薄暑

                           小倉喜郎

や汗ばむ日中の暑さも遠のき、涼しさが予感できる初夏の夕暮れは気持ちがいい時間帯だ。一日の仕事を終え、伸びやかな気分で商店街をぶらぶら歩く作者の目にぬっと置かれた脚立が飛び込んでくる。その違和感が作者の足を止めさせる。と、同時に読者も立ち止まる。「どうして魚屋に脚立があるのだろう。」ただ、はっとさせるだけでは謎解きが終ったあと俳句の味が失せてしまうが、置かれている脚立にさして深い意味はないだろう。それでいてやけに気になるところがこの句の魅力だろう。その魅力を説明するのは難しいが、脚立から魚屋の様子を思い浮かべてみると、水でさっぱりと洗い流されたタイル張りの床や濡れた盤台が現れてくる。そこに立ち働いていたおじさんが消えて脚立が店番をしているようにも思えておかしい。ある一点にピントを絞った写真が前後の時間やまわりの光景を想像させるのと同様の働きをこの脚立が持っているのだろう。「アロハシャツ着てテレビ捨てにゆく」「自販機の運ばれている桐の花」などあくまでドライに物を描いているようで、「え、なぜ」という問いが読み手の想像力をかきたててくれる楽しさを持っている。『急がねば』(2004)所収。(三宅やよい)


May 2152008

 暫くは五月の風に甘えたし

                           柳家小満ん

木の緑がすっかり濃くなった。若いときは草木の緑などには、目などくれていなかったように思うけれど、年齢を重ねるとともに緑に目を奪われるようになった。緑をさらさら洗うように吹きわたってくる風の心地よさ。寒くもない、暑くもない。掲出句の「五月」は「さつき」と読むべきだろう。薫るようなさわやかな風に身も心もあずけて、いつまでもそうしていたい、「甘え」ていたい――「五月の風」はそんな気持ちにさせてくれる。しかし、もうすぐ汗ばむ暑い夏はすぐそこである。特に近年は、春も初夏もあっという間に過ぎていってしまう。風であれ何であれ、人はふと何かしらに甘えたくなってしまうことがある。それはおそらく束の間のことだろうけれど、許されても良いことではないか。小満ん(こまん)はあの名人桂文楽(八代目)の高座に一目ぼれして、大学を中退して入門した。文楽の内弟子時代に「お前なんぞ、まだ噺家の卵にもなっていないんですよ」と叱られながら厳しく育てられた。小満んには『わが師、桂文楽』という名著がある。他にも何冊かの著書があり、年に一回刊行している句集も二十七冊をかぞえる。「文人落語家」と呼ばれる所以である。その高座は落ち着いたいぶし銀の江戸っ子を感じさせる。歯切れのいい本寸法の口調には、しばし酔わされる心地良さがただよう。「夏帯を一つ叩いて任せあれ」というイキな句もならぶ。『狐火』(2008)所収。(八木忠栄)




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