2008N518句(前日までの二句を含む)

May 1852008

 並木座を出てみる虹のうすれ際

                           能村登四郎

語は虹。どの季節にも見られる現象ですが、光、太陽、雨上がり、噴水などが似合う季節は、やはり夏なのでしょう。この句に惹かれたのは「虹のうすれ際」という、静かであざやかな描写よりもむしろ、「並木座」の一語のためでした。あくまでも個人的な読み方になってしまいますが、銀座にあったこの名画座に、わたしは若い頃、足しげく通ったものでした。特に大学生の頃には、キャンパスは時折バリケード封鎖され、休講も多く、ありあまる時間に少ないお金で過ごせる場所といったら、図書館と名画座しかありませんでした。一日中映画館の古い椅子に沈みこむように座って、どこか投げやりな気分に酔いながら、当時の映画をうっとりと見ていたものでした。「八月の濡れた砂」も「初恋地獄篇」も「旅の重さ」も、この映画館で見たのだと思います。最前列の席からは、足を伸ばせば舞台に届いてしまうような、小さな映画館でした。ある日には、映画の帰りに、階段を上がったところの事務室の中に、毛皮のコートを着た秋吉久美子の姿を見て、胸が震えたこともありました。わたしはたいてい夜まで映画を繰り返し見ていましたが、この句の人は、まだ陽のあるうちに並木座を出てきたようです。暗いところに慣らされた目がまぶしく見た銀座の空に、虹がかかっていたのです。虚構の世界が現実にさらされて少しずつ日常に戻って行く。その変化を虹のうすれ際に照らして読むことには、無理があるでしょうか。『角川 俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


May 1752008

 器ごと光つてをりぬさくらんぼ

                           小川みゆき

桜の間に、小さい桜の実がついている。熟すと赤紫になり舗道を染めたりするが、桜桃(おうとう)、いわゆるさくらんぼは、桜の実とは異なり、西洋実桜の実。昔は、桜の木にさくらんぼがならないのはなぜ?と思っていたが。その名の由来は、桜ん坊から来たとか、さくらももの転訛など諸説ある。桜桃は、ゆすらうめとも読むが、ゆすらうめというと子供の頃摘んでは食べた、赤褐色の小さな粒と甘酸っぱくて心持ちえぐい味がよみがえる。さくらんぼを摘んで食べる、という経験はなかったのだが、昨年、初めてさくらんぼ狩りというのを体験した。かなりの高木に、真っ赤な実が驚くほどたわわに実っているのを、次々とって食べる。天辺の方の、お日さまに近いところになっている実の方が甘いので、脚立で木に登る。この木の方が甘い、こっちの方が大粒、などと大のおとな達が夢中になった。そんなさくらんぼだが、かわいらしい名前と色や形に反して、果物としては高価である。きれいに洗って、ガラスの器に盛られたさくらんぼ。食べるのがもったいないような気分になってしばし眺めている。つやつやとした赤い実一つ一つについた水滴と器に初夏の日ざしが反射して、こんもりと丸い光のオブジェのようである。先だって、さくらんぼカレーというのが思いのほか美味、と聞いた。それこそもったいないような食べてみたいような。同人誌「YUKI」(2008・夏号)所載。(今井肖子)


May 1652008

 玻璃くだる雨露病児へ蝌蚪型に

                           香西照雄

世辞にも形の良い句とは言えない。雨露で切れる。破調だがリズムはある。それにしても言葉がぎくしゃくと硬い。流麗な言葉の自律的な結びつきを嫌って、凝視への執着をそのまま丁寧に述べた感じだ。雨露が蝌蚪のかたちに見えるという比喩が中心。玻璃の内側に病気の子どもを閉じ込めて、外側を無数の雨滴が降りてくる。蝌蚪型は比喩だから季語ではないという見方もあろうが、蝌蚪の季節だからこその比喩だという見方もできよう。そう思えば季感はある。蝌蚪型という素朴で大胆な把握はまさに草田男譲り。口あたりの良い流麗な句にない魅力がある。形式のリズムのよろしさが内容より出しゃばると、一句は軽く俗な趣になる。その軽さを「俳諧」と見誤ってはいけない。定型もリズムも季語も「写生」という方法もみんな一から見直すように仕掛けられたこの句のような立ち姿にこそ「文学」が存するのではないか。「俳句とエッセイ」(1987年10月号)所載。(今井 聖)




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