北京五輪は中止しましょう。第一に、被災中国人民を救済すべきです。(哲




2008ソスN5ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1452008

 城址になんにもなくて風薫る

                           江國 滋

事。数年前、所用で大阪へ行った際、時間が妙な具合にあいてしまった。どうしようかとしばし思案。「そうだ」と思いついて出かけたのが大阪城だった。その思い付きが恥ずかしいような嬉しいような・・・。何十年ぶりだった。どこの城も、遠くから眺めているぶんには晴れやかだが、いざやってきてみると観光化してしまい、何かあるようで何もないのが一般的。城主に関する功績なぞも、だいたいが底上げして退屈極まりない。かつての権力の象徴の残骸など好もしいはずがない。民の苦渋と悲鳴が、石垣の一つ一つに滲みついている。城址となれば一層のこと、石垣や草木が哀れをさらしているばかり。歴史の時間などとっくにシラケきっている。観光客がもっともらしく群がっているだけである。辛うじて今時のさわやかに薫る風にホッとしている。あとはなんにもない。なんにもいらない。さて、滋(俳号:滋酔郎)がやってきたのは、「荒城の月」ゆかりの岡城址(大分県)。「東京やなぎ句会」の面々で吟行に訪れた際の収穫。その時、滋は「目によいといわれ万緑みつめおり」という句も投句して、結果二句で優勝したという。小沢昭一著『句あれば楽あり』の吟行報告によれば、城址では、ここは籾倉があった、ここは馬小屋の跡、ここが本丸でした――と「何もない所ばかりのご説明」を受けたという。いずこも似たようなものですね。しかし、眼下にはまぎれもない新緑の田園風景がひろがっていた。ご一行が「なんにもなくて」に共鳴した結果が、最高点ということだったのかもしれない。『句あれば楽あり』(1997)所載。(八木忠栄)


May 1352008

 どこまでが血縁椎の花ざかり

                           山崎十生

父母、父母、兄弟姉妹、叔父叔母、従兄弟。どうかすると、同じ名字を持つというだけで、近しい気持ちになることさえある。種族を血によってグループ分けする血族は、一番たやすく結ばれる共同体である。しかし、容易に断ち切ることのできない血の関係は、そこかしこでうとましく個人の人生につきまとう。マルセル・プルーストは『失われた時を求めて』で、焼き菓子のマドレーヌの香りと味覚を過去への重大なキーワードとしたが、掲句は椎の花の形状や濃厚な匂いを先祖から脈々とつながる血を意識するきっかけとした。椎の花房は咲くというより、葉陰から吹き出すようにあらわれ、重苦しい病み疲れたような匂いを放つ。そして、まるで望まれていない花であることを承知しているように、あっけないほどあっさりと花の時期を終え、細かな残骸をいっしんに散り敷き、漂っていた匂いもまたふいに消えてしまう。花の盛りを意識すればするほどに、しばらくすれば一切が消えてしまう予感にとらわれる。裾広がりの血のつながりに思いを馳せることは、うっとおしさと同時に、別れの悲しみをなぞっていくようにも思えてくる。『花鳥諷詠入門』(2004)所収。(土肥あき子)


May 1252008

 二の腕を百合が汚してゆきにけり

                           河野けい子

合の花は好ましいが、ただ花粉の量が多くて厄介だ。部屋に飾っておくと、いつの間にやら花粉が飛散して、そこらじゅうを汚してしまう。服やテーブル・クロスなどに付着すると、なかなか取れなくて往生する。だから花屋によっては、最初からオシベを取ってしまって売っていたりする。句は、ノースリーブの作者が街中で百合の束を持った人とすれ違った直後の情景だろう。二の腕が花に触れたか触れないかくらいのことだったろうが、気になってぱっと見てみたら、やはり汚れていた。とっさに花粉を払いのけながら、しかし作者は汚れを不快に思っているわけではない。むしろ、思いがけずも自然と腕とがジカに触れ合ったことを、微笑しつつ受け入れている。男の私から言えば、瑞々しく健康的なエロティシズムすら感じられる情景だ。余談になるが、マリアの受胎告知の絵に添えられる百合には、オシベが描かれていないのだそうである。むろん花粉を心配して描かなかったのではなく、マリアの処女性に配慮してのことだろう。「俳句界」(2008年5月号)所載。(清水哲男)




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