中国四川省で大地震。死者7000人との報道もあるが、それだけですむのか。(哲




2008ソスN5ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1352008

 どこまでが血縁椎の花ざかり

                           山崎十生

父母、父母、兄弟姉妹、叔父叔母、従兄弟。どうかすると、同じ名字を持つというだけで、近しい気持ちになることさえある。種族を血によってグループ分けする血族は、一番たやすく結ばれる共同体である。しかし、容易に断ち切ることのできない血の関係は、そこかしこでうとましく個人の人生につきまとう。マルセル・プルーストは『失われた時を求めて』で、焼き菓子のマドレーヌの香りと味覚を過去への重大なキーワードとしたが、掲句は椎の花の形状や濃厚な匂いを先祖から脈々とつながる血を意識するきっかけとした。椎の花房は咲くというより、葉陰から吹き出すようにあらわれ、重苦しい病み疲れたような匂いを放つ。そして、まるで望まれていない花であることを承知しているように、あっけないほどあっさりと花の時期を終え、細かな残骸をいっしんに散り敷き、漂っていた匂いもまたふいに消えてしまう。花の盛りを意識すればするほどに、しばらくすれば一切が消えてしまう予感にとらわれる。裾広がりの血のつながりに思いを馳せることは、うっとおしさと同時に、別れの悲しみをなぞっていくようにも思えてくる。『花鳥諷詠入門』(2004)所収。(土肥あき子)


May 1252008

 二の腕を百合が汚してゆきにけり

                           河野けい子

合の花は好ましいが、ただ花粉の量が多くて厄介だ。部屋に飾っておくと、いつの間にやら花粉が飛散して、そこらじゅうを汚してしまう。服やテーブル・クロスなどに付着すると、なかなか取れなくて往生する。だから花屋によっては、最初からオシベを取ってしまって売っていたりする。句は、ノースリーブの作者が街中で百合の束を持った人とすれ違った直後の情景だろう。二の腕が花に触れたか触れないかくらいのことだったろうが、気になってぱっと見てみたら、やはり汚れていた。とっさに花粉を払いのけながら、しかし作者は汚れを不快に思っているわけではない。むしろ、思いがけずも自然と腕とがジカに触れ合ったことを、微笑しつつ受け入れている。男の私から言えば、瑞々しく健康的なエロティシズムすら感じられる情景だ。余談になるが、マリアの受胎告知の絵に添えられる百合には、オシベが描かれていないのだそうである。むろん花粉を心配して描かなかったのではなく、マリアの処女性に配慮してのことだろう。「俳句界」(2008年5月号)所載。(清水哲男)


May 1152008

 薄紙にひかりをもらす牡丹かな

                           急 候

田宵曲は『古句を観る』の中で、この句について次のように解説しています。「牡丹に「ひかり」という強い形容詞を用いたのは、この時代の句として注目に値するけれども、薄紙を隔てて「ひかりをもらす」などは頗る弱い言葉で、華麗なる牡丹の姿に適せぬ憾(うらみ)がないでもない。」なるほど、これだけ自信たっぷりに解説されると、そのようなものかといったんは納得させられます。ただ、軟弱な感性を持ったわたしなどには、むしろ「ひかりをもらす」と、わざわざひらがなで書かれたこのやわらかな動きに、ぐっときてしまうのです。薄紙を通した光を描くとは、江戸期の叙情もすでに、微細な感性に充分触れていたようです。華麗さで「花の王」とまで言われている牡丹であるからこそ、その隣に「薄さ」「弱さ」を置けば、いっそうその気品が際立つというものです。いえ、内に弱さを秘めていない華麗さなど、ありえないのではないかとも思えるのです。句中の「ひかり」が、句を読むものの顔を、うすく照らすようです。『古句を観る』(1984・岩波書店)所載。(松下育男)




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