ミャンマーのサイクロン被害甚大。各国が救援に乗り出す中、我が国はいつものように(!)反応が鈍い。(哲




2008ソスN5ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0852008

 今生のラジオの上のイボコロリ

                           中烏健二

が子供の頃ラジオは生活を彩る大事な電化製品だった。夕暮れ時の商店街のあちこちからは相撲や野球の中継が流れてきたし、中学になると深夜ラジオのポップな音楽やおしゃべりにうつつを抜かした。掲句のラジオは寝床で気軽に聞けるトランジスタラジオではなく、茶の間に置かれた旧式の箱型ラジオだろうか。ラジオの上にひょいと置かれたまま忘れられているクスリ類としては、常備薬として出番の多い「正露丸」や「メンソレータム」でなく、痛い魚の目やイボができたときだけ集中的に使う「イボコロリ」を選んだのは絶妙の選択と言っていい。ラジオの上に「イボコロリ」がある風景は、たとえその事実がなくとも、ああ、そうなんだよねぇ。と自分が住んでいた家に重ねて共感を呼び起こす説得力を持っている。たまたまそこに置いた家族の誰かがいなくなったとしても、片付けられずにそこにあるものがどの家庭にもあるだろう。埃をかぶったラジオもイボコロリも家族の視界にありながら半ば存在しないものとして、四季を通じてそこに在り続ける。些細で具体的なものに焦点を絞ることで、「今生」の生活の内部にありながら生活の外側で持続する時間を感じさせる無季句だと思った。「ぶるうまりん」(2007/11/25発行 第7号)所載。(三宅やよい)


May 0752008

 ふるさとの笹の香を咬むちまきかな

                           小杉天外

まき(粽)は端午の節句の頃に作る。関東では柏餅。笹の葉で巻いて蒸したモチ米または団子である。笹の葉で包むと日持ちがいいばかりでなく、笹の香がおいしさをいっそう引き立てる。天外は秋田県の生まれ。ふるさとから送られてきたちまきは、格別なごちそうというわけではないけれど、笹の香に遠いふるさとの香り、ふるさとの様子をしばししのんでいるのだろう。「笹の香」ゆえに「食べる」というよりも「咬(か)む」とアクティブに表現したあたりがポイント。その香を咬めば、ちまきの素朴なおいしさばかりでなく、すっかりご無沙汰しているふるさとの懐かしい人々や、土地のあれこれまでが思い出されるのだろう。かつて笹だんごは家々で作っていたから、私は子どもの頃、裏山へ笹を採りに行かされた。白いモチ米で作ったちまきの笹をむいて、黄粉(きなこ)を付けて食べた。それよりも子どもたちには、なかにアンコが入り草餅で包んだ笹だんごのほうがおいしかった。砂糖の入手が困難だった戦時中は、アンコのかわりに味噌をなかに入れていたっけ。あれには妙なおいしさがあった。食べることもさることながら、祖母や母に教わりながら、慣れない手付きでゆでた笹でくるみ、スゲで結わえる作業に加わるのが、ヘタクソなくせに楽しかった。「越後の笹だんご」は名物として、私のふるさとの駅やみやげもの店で盛んに蒸篭でふかしながら売られているけれど、見向きもしなくなってしまった。夏目漱石の「粽食ふ夜汽車や膳所(ぜぜ)の小商人(こあきうど)」という句も忘れがたい。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 0652008

 肉の傷肌に消えゆくねむの花

                           鳥居真里子

が自然に治癒していく様子、といってしまえばそれまでのことが、作者の手に触れると途端に謎めく。血の流れていた傷口がふさがり、乾き、徐々に姿を変え、傷痕さえ残さず元の肌に戻ることを掲句は早送りで想像させ、それはわずかにSF的な映像でもある。外側から消えてしまった傷は一体どこへいくのだろう。身体の奥のどこかに傷の蔵のような場所があって、生まれてから今までの傷が大事にしまい込まれているのかもしれない。一番下にしまわれている最初の傷は何だったのだろう。眠りに落ちるわずかの間に、傷の行方を考える。夜になると眠るように葉が閉じる合歓の木は、その名の通り眠りをいざなう薬にもなるという。習性と効用の不思議な一致。同じ句集にある〈陽炎や母といふ字に水平線〉も、今までごく当然と思っていたものごとが、実は作者の作品のために用意された仕掛けでもあるかのようなかたちになる。これから母の字の最後の一画を引く都度、丁寧に水平線を引く気持ちになることだろう。明日は母の誕生日だ。〈幽霊図巻けば棒なり秋の昼〉〈鶴眠るころか蝋燭より泪〉『月の茗荷』(2008)所収。(土肥あき子)




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