昨日の東京は連休中で一番の上天気。やっと休日気分になったのに……。(哲




2008ソスN5ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0752008

 ふるさとの笹の香を咬むちまきかな

                           小杉天外

まき(粽)は端午の節句の頃に作る。関東では柏餅。笹の葉で巻いて蒸したモチ米または団子である。笹の葉で包むと日持ちがいいばかりでなく、笹の香がおいしさをいっそう引き立てる。天外は秋田県の生まれ。ふるさとから送られてきたちまきは、格別なごちそうというわけではないけれど、笹の香に遠いふるさとの香り、ふるさとの様子をしばししのんでいるのだろう。「笹の香」ゆえに「食べる」というよりも「咬(か)む」とアクティブに表現したあたりがポイント。その香を咬めば、ちまきの素朴なおいしさばかりでなく、すっかりご無沙汰しているふるさとの懐かしい人々や、土地のあれこれまでが思い出されるのだろう。かつて笹だんごは家々で作っていたから、私は子どもの頃、裏山へ笹を採りに行かされた。白いモチ米で作ったちまきの笹をむいて、黄粉(きなこ)を付けて食べた。それよりも子どもたちには、なかにアンコが入り草餅で包んだ笹だんごのほうがおいしかった。砂糖の入手が困難だった戦時中は、アンコのかわりに味噌をなかに入れていたっけ。あれには妙なおいしさがあった。食べることもさることながら、祖母や母に教わりながら、慣れない手付きでゆでた笹でくるみ、スゲで結わえる作業に加わるのが、ヘタクソなくせに楽しかった。「越後の笹だんご」は名物として、私のふるさとの駅やみやげもの店で盛んに蒸篭でふかしながら売られているけれど、見向きもしなくなってしまった。夏目漱石の「粽食ふ夜汽車や膳所(ぜぜ)の小商人(こあきうど)」という句も忘れがたい。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 0652008

 肉の傷肌に消えゆくねむの花

                           鳥居真里子

が自然に治癒していく様子、といってしまえばそれまでのことが、作者の手に触れると途端に謎めく。血の流れていた傷口がふさがり、乾き、徐々に姿を変え、傷痕さえ残さず元の肌に戻ることを掲句は早送りで想像させ、それはわずかにSF的な映像でもある。外側から消えてしまった傷は一体どこへいくのだろう。身体の奥のどこかに傷の蔵のような場所があって、生まれてから今までの傷が大事にしまい込まれているのかもしれない。一番下にしまわれている最初の傷は何だったのだろう。眠りに落ちるわずかの間に、傷の行方を考える。夜になると眠るように葉が閉じる合歓の木は、その名の通り眠りをいざなう薬にもなるという。習性と効用の不思議な一致。同じ句集にある〈陽炎や母といふ字に水平線〉も、今までごく当然と思っていたものごとが、実は作者の作品のために用意された仕掛けでもあるかのようなかたちになる。これから母の字の最後の一画を引く都度、丁寧に水平線を引く気持ちになることだろう。明日は母の誕生日だ。〈幽霊図巻けば棒なり秋の昼〉〈鶴眠るころか蝋燭より泪〉『月の茗荷』(2008)所収。(土肥あき子)


May 0552008

 火のようにさみしい夏がやってくる

                           近三津子

は来ぬ。実感的にはまだかな。それはともかくとして、まだ猛暑に至らないいまどきに「夏」と聞くと、気分が良くなる。少なくとも、私の場合は、だ。一般的に言っても、おそらくそうではないかと思うのだが、揚句の作者はそのようには思わないと言うのである。逆である。しかし、句にその根拠は示されていない。だからして独善的で一方的な物言いかと言うと、あまりそうは感じられないところが、俳句ないしは詩歌の妙と言うべきか。そう言われてみれば、何かわかるような気もしてくるのである。この句の生命線は、もとより「火のようにさみしい」という比喩にある。さみしさも高じると、火のようにめらめらと燃え上がり、手がつけられなくなるほどに圧倒されてしまう。その手のつけられなさが「夏」という言葉と実際とににかかるとき、そこには常識から言えば一種パラドックスめいた納得の時空間が成立するのだ。「夏」と「火」とは合う。でも「火」と「さみしさ」とは、なかなかに合い難い。作者はそこを強引に「私には合う」と言ってのけていて、それをポエムとして仕立て上げているわけだ。自由詩の世界ではままあることだけれど、俳句ではあまり見かけない表現法である。したがって揚句は、読者の感受性を調べるリトマス試験紙のようなものかもしれないと思った。この断言肯定命題にうなずくのか、それとも断固忌避するのか。そのことは、読者のいわば持って生まれた気質にかかわってくると思われるからである。もちろん、どちらでも良いのである。ともかく、また今年もやがて「火の」夏がやってくる。愉しくあって欲しい。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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