世の中は連休モード。あやかりたいけど、あやかるのもシンドイような。(哲




2008ソスN4ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2842008

 メーデーの手錠やおのれにも冷たし

                           榎本冬一郎

ーデーが近づいてきた。と言っても、近年の連合系のそれは四月末に行われるので、拍子抜けしてしまう。メーデーはあくまでも五月一日に行われることに大きな歴史的な意義があるのだ。このたった一日の労働者の祭典日を獲得するまでに、世界中の先輩労働者たちがいわば血と汗で贖った五月一日という日付を、そう簡単に変えたりしてよいものだろうか。私は反対だ。句の作句年代は不明だが、まだメーデーに「闘うメーデー」の色彩が濃かった頃の句だと思われる。家族連れが風船片手に参加できるような暢気な状況ではなかった。作者は警察官の立場から詠んでいるわけだが、所持した手錠を何度も触って確認している図は、おのずからメーデー警備の緊張感を象徴している。触って冷たいのだから、まだ祭典が始まる前の朝早い時間かもしれない。手錠は心理的にも冷たく写るので、やがて遭遇することになるデモ隊からは、所持者たる警察官にもそれこそ冷たい視線が浴びせられることになるだろう。作者はそのことを十分承知しながらも、しかし「おのれにも」冷たいのだと言っている。触感だけではなく、心理的にもだ。作者は苦学して警察官になったと聞く。だから、民間労働者の苦しみもよくわかっている。立場の違いがあるからといって、そのような人々と争いたくはない。できれば手錠を使う機会がないことを願うばかりなのだ。そんな気持ちの葛藤が、作者をして心理的にも手錠を冷たく感じさせる所以だと読めてくる。『現代歳時記・春』(2004年・学習研究社)所載。(清水哲男)


April 2742008

 春の蛇口は「下向きばかりにあきました」

                           坪内稔典

うしてこの句に惹かれるのだろう、というところから考えはじめなければならないようです。文芸作品に接するとき、通常は、言葉で巧みに描かれた「意味内容」に、心を動かされるものです。しかし、掲句を読むかぎり物事はそう単純ではないようです。意味はわかりやすくできています。蛇口というのはたいてい下向きについているものですが、人か、あるいは蛇口自身が、ある日、そのことにもう飽きたといいだしたのです。たしかに、だれもなんとも思わないものを、このようにとり上げられれば、そうかそんな見方もあるのかという驚きは感じます。しかし、この句に惹かれる理由は、それだけではないようです。また、「春の」とあるように、のんびりとした雰囲気の中で、深刻なことは考えないで、水のこぼれている栓のゆるい蛇口でも眺めていようよという、心地のよいちからのぬけかたも感じます。しかし、それだけでもなさそうです。たぶん、俳句という、ここまでは言い切ってしまったけれども、ここから先はどんなふうに書きついでも台無しになる世界、そこにこそ、私は惹かれるのかなと、思うのです。『現代の俳句』(1993・講談社)所載。(松下育男)


April 2642008

 春陰や眠る田螺の一ゆるぎ

                           原 石鼎

陰について調べていた。影、が光の明るさを連想させるのに対して、陰、はなんとなく暗さを思わせるので、抽象的なイメージを抱いていたらそうではなく、花曇り、とほぼ同義で、春特有の曇りがちな天候のことだという。花曇りが桜の頃に限定されるのに対して、春陰はその限りではないが、陰の字のせいか確かに多少主観的な響きがある。日に日に暖かさを増す頃、曇り空に覆われた田んぼの泥の中に、蓋をぴったり閉じて冬を越した田螺がいる。固い殻越しにも土が温んでくるのを感じるのか、じっと冬眠していた田螺は、まだ半分は眠りの中にありながらかすかに動く、なんてこともあるのではないかなあ、と作者自身、春眠覚めやらぬ心地で考えているのか。あるいは、ほろ苦い田螺和えが好物で、自ら田螺取りに行ったのか。いずれにしても、つかみ所なく広々とした曇天と、小さな巻き貝のちょっぴりユーモラスな様子が、それぞれ季語でありながらお互い助け合い、茫洋とした春の一日を切り取って見せている。『花影』(1937)所収。(今井肖子)




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