11連休という人もいるのだそうな。雑誌の仕事なら完全にパンクです。(哲




2008ソスN4ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2742008

 春の蛇口は「下向きばかりにあきました」

                           坪内稔典

うしてこの句に惹かれるのだろう、というところから考えはじめなければならないようです。文芸作品に接するとき、通常は、言葉で巧みに描かれた「意味内容」に、心を動かされるものです。しかし、掲句を読むかぎり物事はそう単純ではないようです。意味はわかりやすくできています。蛇口というのはたいてい下向きについているものですが、人か、あるいは蛇口自身が、ある日、そのことにもう飽きたといいだしたのです。たしかに、だれもなんとも思わないものを、このようにとり上げられれば、そうかそんな見方もあるのかという驚きは感じます。しかし、この句に惹かれる理由は、それだけではないようです。また、「春の」とあるように、のんびりとした雰囲気の中で、深刻なことは考えないで、水のこぼれている栓のゆるい蛇口でも眺めていようよという、心地のよいちからのぬけかたも感じます。しかし、それだけでもなさそうです。たぶん、俳句という、ここまでは言い切ってしまったけれども、ここから先はどんなふうに書きついでも台無しになる世界、そこにこそ、私は惹かれるのかなと、思うのです。『現代の俳句』(1993・講談社)所載。(松下育男)


April 2642008

 春陰や眠る田螺の一ゆるぎ

                           原 石鼎

陰について調べていた。影、が光の明るさを連想させるのに対して、陰、はなんとなく暗さを思わせるので、抽象的なイメージを抱いていたらそうではなく、花曇り、とほぼ同義で、春特有の曇りがちな天候のことだという。花曇りが桜の頃に限定されるのに対して、春陰はその限りではないが、陰の字のせいか確かに多少主観的な響きがある。日に日に暖かさを増す頃、曇り空に覆われた田んぼの泥の中に、蓋をぴったり閉じて冬を越した田螺がいる。固い殻越しにも土が温んでくるのを感じるのか、じっと冬眠していた田螺は、まだ半分は眠りの中にありながらかすかに動く、なんてこともあるのではないかなあ、と作者自身、春眠覚めやらぬ心地で考えているのか。あるいは、ほろ苦い田螺和えが好物で、自ら田螺取りに行ったのか。いずれにしても、つかみ所なく広々とした曇天と、小さな巻き貝のちょっぴりユーモラスな様子が、それぞれ季語でありながらお互い助け合い、茫洋とした春の一日を切り取って見せている。『花影』(1937)所収。(今井肖子)


April 2542008

 雨季来りなむ斧一振りの再会

                           加藤郁乎

雨の趣きとは異なって「雨季」には日本的ではない語感がある。鉞(まさかり)というと金太郎が浮かぶが斧というとどういうわけかロシアとか東欧が浮かぶ。僕だけだろうか。だからこの句、全体からモダニズムが匂う。雨季が今来ているところであろうよ、が雨季来りなむ。斧一振りはフラッシュバックへの導入。斧で殺されたトロツキーや、シベリア抑留捕虜の伐採の労働が瞬時にイメージされては消える。「再会」は記憶の中の過去との再会。そこは雨季がまさに訪れようとしている。歴史の流れと自分の過去が共有する「時間」を遡るのだ。モダニズムへの憧憬と深い内省と。この句所収の句集『球体感覚』の刊行年、一九五九年とはそんな年ではなかったか。「雨季来りなむ」と「斧一振り」と「再会」はそれぞれ現実的意味としての連関をもたないが、全体としてひとつのイメージを提供する。雨季との再会や人物との再会と取る読みもあろうが、僕はそうは取らない。もちろんこの雨季は季語ではない。『球体感覚』(1959)所収。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます