志村正順氏が亡くなっていた。美声ではなかったが描写力抜群。合掌。(哲




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April 2642008

 春陰や眠る田螺の一ゆるぎ

                           原 石鼎

陰について調べていた。影、が光の明るさを連想させるのに対して、陰、はなんとなく暗さを思わせるので、抽象的なイメージを抱いていたらそうではなく、花曇り、とほぼ同義で、春特有の曇りがちな天候のことだという。花曇りが桜の頃に限定されるのに対して、春陰はその限りではないが、陰の字のせいか確かに多少主観的な響きがある。日に日に暖かさを増す頃、曇り空に覆われた田んぼの泥の中に、蓋をぴったり閉じて冬を越した田螺がいる。固い殻越しにも土が温んでくるのを感じるのか、じっと冬眠していた田螺は、まだ半分は眠りの中にありながらかすかに動く、なんてこともあるのではないかなあ、と作者自身、春眠覚めやらぬ心地で考えているのか。あるいは、ほろ苦い田螺和えが好物で、自ら田螺取りに行ったのか。いずれにしても、つかみ所なく広々とした曇天と、小さな巻き貝のちょっぴりユーモラスな様子が、それぞれ季語でありながらお互い助け合い、茫洋とした春の一日を切り取って見せている。『花影』(1937)所収。(今井肖子)


April 2542008

 雨季来りなむ斧一振りの再会

                           加藤郁乎

雨の趣きとは異なって「雨季」には日本的ではない語感がある。鉞(まさかり)というと金太郎が浮かぶが斧というとどういうわけかロシアとか東欧が浮かぶ。僕だけだろうか。だからこの句、全体からモダニズムが匂う。雨季が今来ているところであろうよ、が雨季来りなむ。斧一振りはフラッシュバックへの導入。斧で殺されたトロツキーや、シベリア抑留捕虜の伐採の労働が瞬時にイメージされては消える。「再会」は記憶の中の過去との再会。そこは雨季がまさに訪れようとしている。歴史の流れと自分の過去が共有する「時間」を遡るのだ。モダニズムへの憧憬と深い内省と。この句所収の句集『球体感覚』の刊行年、一九五九年とはそんな年ではなかったか。「雨季来りなむ」と「斧一振り」と「再会」はそれぞれ現実的意味としての連関をもたないが、全体としてひとつのイメージを提供する。雨季との再会や人物との再会と取る読みもあろうが、僕はそうは取らない。もちろんこの雨季は季語ではない。『球体感覚』(1959)所収。(今井 聖)


April 2442008

 パスポートにパリーの匂ひ春逝けり

                           マブソン青眼

しい海外旅行の経験しかないけど、パスポートを失くす恐ろしさは実感させられた。これがないと飛行機にも乗れないしホテルにも泊まれない。何か事が起きたとき異国で自分を証明してくれるのはこの赤い表紙の手帳でしかない。肌身離さず携帯していないと落ち着かなかった。母国から遠く離れれば離れるほどパスポートは重みを増すに違いない。『渡り鳥日記』と題された句集の前文には「渡り鳥はふるさとをふたつ持つといふ渡り鳥の目に地球はひとつなり」と、記されている。その言葉通り作者の故郷はフランスだが、現在は長野に住み、一茶を研究している。だが、時にはしみじみと母国の匂いが懐かしくなるのかもしれない。それは古里を離れて江戸に住み「椋鳥と人に呼ばるる寒さ哉」と詠んだ一茶の憂愁とも重なる。年毎に春は過ぎ去ってゆくけれど、今年の春も終わってしまう。「逝く」の表記に過ぎ去ってしまう時間と故郷への距離の遥かさを重ねているのだろうか。「パスポート」「パリ」と軽い響きの頭韻が「春」へと繋がり、思い入れの強い言葉の意味を和らげている。句集は全句作者の手書きによるもので、付属のCDでは四季の映像と音楽に彩られた俳句が次々と展開してゆく。手作りの素朴さと最先端の技術、対極の組み合わせが魅力的だ。『渡り鳥日記』(2007)所収。(三宅やよい)




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