昨日は余白句会、今宵は「俳句界」座談会へ。シルバー・パス大活躍也。(哲




2008ソスN4ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2042008

 おそく帰るや歯磨きコップに子の土筆

                           和知喜八

語はもちろん土筆。そういえば、土筆坊(つくしんぼ)と、なれなれしく呼ぶこともあるのでした。食用にもなるのでしょうが、私の記憶に残っているのは、子供の頃に、多摩川の土手に行ってひたすらに摘んだこと、あるいは掌に幾本も握ったまま走りまわったことです。もちろん大人になってからは、土筆を摘んだことも、握りしめたこともありません。日々のいそがしい生活の中に、このようなものが割り込む余地など、まったくありません。掲句に描かれているのも、私のような、残業続きの勤め人の日常なのでしょう。「おそく帰るや」と、字を余らせてもその疲れを表現したかったようです。深夜、駅で延々と行列を作って、やっと乗れたタクシーを降り、家にたどり着けば家族はすでに眠りに入っています。起こさないようにそっと扉をしめて、洗面所に向かいます。家に帰ってきたとはいえ、頭の中は依然として仕事のことで興奮しているのです。顔を洗ってさっぱりした目の前に、歯磨き用のコップがあるのはいつも通りとしても、コップから何かが顔をのぞかせているようです。目を凝らせば、土筆のあたまがちょこんとコップの中から出ています。そうか、子供たちは昨日土筆を摘んでいたのかと、話を聞かずとも、その日の子供の様子がまざまざと想像できます。のんびりとした遊びの想像に包まれて、お父さんはその夜、おだやかな眠りにはいってゆけたのです。『山本健吉俳句読本 第二巻俳句観賞歳時記』(1993・角川書店) 所載。(松下育男)


April 1942008

 春昼ややがてペン置く音のして

                           武原はん女

句の前に、小さく書かれている前書き。一句をなして作者の手を離れれば、句は読み手が自由に読めばよいのだが、前書きによって、作句の背景や心情がより伝わりやすい、ということはある。この句の場合、前書きなしだとどんな風に受け止められるのだろう。うらうらとした春の昼。しんとした時間が流れている。そこに、ことり、とペンを置く音。下五の連用止めが、この後に続く物語を示唆しているように感じられるのだろうか。ペンを置いたのは、作家大佛次郎。この句の作者、地唄舞の名手であった武原はん(はん女は俳号)の、よき理解者、自称プロデューサーであった。昨年、縁あってはん女の句集をすべて読む機会を得た。句集を年代を追って読んでいくというのは、その人の人生を目の当たりにすることなのだ、とあらためて知ったが、そうして追った俳人はん女の人生は、舞ひとすじに貫かれ、俳句と共にあった。日記のように綴られている句の数々。そんな中、「大佛先生をお偲びして 九句」という前書きがついているうちの最初の一句がこの句である。春昼の明るさが思い出として蘇る時、そこには切なさと共に、今は亡き大切な人への慈しみと感謝の心がしみわたる。〈通夜の座の浮き出て白し庭牡丹〉〈藤散るや人追憶の中にあり〉と読みながら、鼻の奥がつんとし、九句目の〈えごの花散るはすがしき大佛忌〉に、はん女の凛とした生き方をあらためて思った。『はん寿』(1982)所収。(今井肖子)


April 1842008

 銀河系のとある酒場のヒヤシンス

                           橋 間石

のおかげでいろいろ乗り切ってこられたと大酒呑みだった父は酒への感謝をよく口にした。負け戦に駆り出されて爆弾の下を駆けずり回り、戦後は農地改革で家が崩壊し、いくつか職を変え、伴侶である僕の母は長患いで入院を繰り返し、馬鹿息子はいつも逆らって父を悩ました。酒が父のストレスのはけ口だった。俺が飲めなくなったらそんときは終わりだな。その言葉どおり飲めなくなってすぐお別れがきた。今現世の我らが飲んでいるところが銀河系の地球の日本のとある酒場。そういう意味ともうひとつ、夜空を見上げて銀河系の中に彼岸の人たちが集まる酒場を思ってみてもいい。どちらにしてもヒヤシンスなんか置いてあるんだからちょっと粋な酒場だ。僕などいつも飲む酒場はゴキブリや鼠が出る喧騒の安酒場。銀河系というより地獄の一丁目のような趣き。(作者の間石の間の正字は門構えの中に「月」)『季別季語辞典』(2002)所載。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます