阪神金本が2000安打、プロ野球37人目だ。おめでとう。(哲




2008ソスN4ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1342008

 月日貝加齢といふ語美しき

                           三嶋隆英

ず、「月日貝」というものがあることに驚きます。むろんものの名ですから、人によってどのようにも名づけられることはあるでしょう。けれど、人の名や、動物の名、植物の名に、月日を持ってくるとは、思いがけないことでした。「月日貝」という名だけで、かなりのイメージを喚起しますから、この語を使って句を詠むことは、つまり季語に負けない句を詠むことは、容易なことではありません。歳時記の解説には次のような説明があります。「イタヤガイ科の二枚貝。(略)左殻は濃赤色、右殻は白色。これをそれぞれ日と月に見立ててこの名がある」。なるほど、視覚的に、色から月と日があてがわれたのでした。しかし、月と日があわさって、つながってしまうと、この語は突然、「時の流れ」を生み出してしまいます。掲句もその「月日」を歳月と解釈し、齢(よわい)を加えるという言い方を美しいと詠んでいます。考え方の流れとしては素直で、このままの心情を読み取ればよいのかと思います。老いることが何かを減じることではなく、加えられることであるという認識は、たしかに美しいものです。なお、歳時記の解説はさらに、次のように続いています。「食用になり、殻は貝細工になる。」そうか、わたしたちは月日を食べ、細工までしていたのです。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店) 所載。(松下育男)


April 1242008

 ふらここの影の止つてをりにけり

                           木村享史

らんこ、とは考えてみればまことにそのまんまな名前である。ポルトガル語に由来するなど、その語源は諸説あるようだが、ぶら下がって揺れる様子から名付けられたという気が確かにする。広辞苑で「ふらここ」と引くと、「鞦韆」の文字と共に「ぶらんこ。ぶらここ。しゅうせん。」と出る。他に、半仙戯、ゆさわり、など、さまざまな名前を持つぶらんこが春季である本意は、四月三日の鑑賞文で三宅さんが書かれているように、のどやかでのびやかな遊具としての特性からだろう。春休みの間は一日中揺れていたぶらんこ。新学期が始まった公園では、ぶらんこを勢いよく漕ぐにはまだ幼い子供達とその母親に、ゆっくりした時間が流れている。昼どき、ベンチで昼休みを過ごす人に春の日がうらうらと差す。その日ざしは、葉の出始めた桜の葉陰からこぼれ、ジャングルジムにシーソーに、そしてぶらんこに明るい影を落としている。たくさんの子供達に、時にはおとなに、その名の通り仙人になったような浮遊感を与え続けているぶらんこの、しんとした影。春昼を詠んで巧みである。『夏炉』(2008)所収。(今井肖子)


April 1142008

 海棠の花くぐりゆく小径あり

                           長谷川櫂

代でも俳句が描く情趣の大方は芭蕉が開発した「わび、さび」の思想を負っている。そこには死生観、無常観が根底にある。そこに自らの俳句観を置く俳人は現世の諸々の様相を俳句で描くべき要件とは考えない。現実の空間や時間を「超えた」ところにひたすら眼を遣ることを自己のテーマたらむとするのである。その考え方の表れとして例えば「神社仏閣」や「花鳥諷詠」が出てくる。どう「超える」かの問題や、現実に関わらない「超え方」があるのかどうかは別にして、そういうふうに願って作られる作品があり、そういう作品に惹かれる読者が多いこともまた事実である。いわゆる文人俳句といわれるものや詩人がみずから作る俳句の多くもまたこの類である。自己表現における「私」と言葉とのぎりぎりの格闘に緊張を強いられてきた人は、俳句に「私」を離れた「諷詠」を求めたいのかもしれない。作者は生粋の「俳人」。世を捨てる「俳」の在り方に「普遍」を重ねてみている。句意は明瞭。『季別季語辞典』(2002)所載。(今井 聖)




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