「年金の信頼損なった」と厚労省が反省文。なんだか小学生みたいだな。(哲




2008ソスN4ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1042008

 明日出会ふ子らの名前や夕桜

                           中田尚子

週の月曜日あたりに入学式のところが多かったのか、真新しいランドセルを背負った小学生やだぶついた制服を着た中学生と時折すれちがう。入学式には満開の桜が似合いなのに、東京の桜はほとんど散ってしまった。温暖化の影響で年々桜の開花は早まっているらしく、赤茶けた蘂ばかりになってしまった枝が少しうらめしい。我儘な親と躾けられない子供にかき回される教育現場が日々報道されているけれど、初めて出会う子供達の名前を出席簿に確かめる担任教師の期待と不安は昔と変わらないのではないか。明日に入学式を控えて先生も少し緊張している。これから卒業までの年月をともに過ごす子供達である。育てる楽しさがあると同時に巣立つまでの責任は重い。時に感情の対立もあるかもしれないが、そのぶつかり合いから担任とそのクラスの生徒達だけが分かち合える喜びや親しさも生まれてくる。生徒の側からみても最初に受持ってもらった先生は幾つになっても懐かしいものだ。明日胸を高鳴らしてやって来る子供達が入る校舎の窓に、咲きそろう桜が色濃く暮れてゆく。入学式前日の教師のつぶやきがそのまま句になったような優しさが魅力だ。「俳句年鑑」(角川2008年度版)所載。(三宅やよい)


April 0942008

 恋猫のもどりてまろき尾の眠り

                           大崎紀夫

の交尾期は年に四回だと言われる。けれども、春の頃の発情が最も激しい。ゆえに「恋猫」も「仔猫」も春の季語。あの求愛、威嚇、闘争の“雄叫び”はすさまじいものがある。ケダモノの本性があらわになる。だから「おそろしや石垣崩す猫の恋」という子規の凄い句も、あながち大仰な表現とは言いきれない。掲出句は言うまでもなく、恋の闘いのために何日か家をあけていた猫が、何らかの決着がついて久しぶりにわが家へ帰ってきて、何事もなかったかのごとくくつろいでいる。恋の闘いに凱旋して悠々と眠っている、とも解釈できるし、傷つき汚れ、落ちぶれて帰ってきて「やれやれ」と眠っている、とも解釈できるかもしれない。「まろき尾」という、どことなく安穏な様子からして、この場合は前者の解釈のほうがふさわしいと考えられる。いずれにせよ、恋猫の「眠り」を「まろき尾」に集約させたところに、この句・この猫の可愛さを読みとりたい。飼主のホッとした視線もそこに向けられている。猫の尾は猫の気持ちをそのまま表現する。このごろの都会の高層住宅の日常から、猫の恋は遠のいてしまった。彼らはどこで恋のバトルをくりひろげているのだろうか? 紀夫には「恋猫の恋ならずして寝つきたり」という句もあり、この飼主の同情的な視線もおもしろい。今思い出した土肥あき子の句「天高く尻尾従へ猫のゆく」、こちらは、これからおもむろに恋のバトルにおもむく猫の勇姿だと想定すれば、また愉快。『草いきれ』(2004)所収。(八木忠栄)


April 0842008

 ぬかづけばわれも善女や仏生会

                           杉田久女

釈迦さまの誕生日を祝う仏生会は4月8日だが、近所の護国寺では日曜日に合わせて先日6日に行われた。色とりどりの生花をあしらった花御堂のなかには「天上天下唯我独尊」と言われたという右手を天に掲げたポーズで誕生仏が納められる。可愛らしい柄杓でお釈迦さまの身体に甘茶をかける習わしは、誕生のときに九龍が天から清らかな香湯を吐き注いで、産湯をつかわせた伝説に基づくものだという。晴天のもと、桜吹雪のなか、善男善女の列に加わり、薄甘いお茶を押しいただけば、まったく無責任に「ああ、極楽ってよさそうなところ」などと夢想する。雪のクリスマス、花の仏生会、信仰心にほとんど関係なくそれぞれの寿ぎの祝典を抵抗なく受け入れているのは、どちらも根幹には命の誕生という健やかさが共通して流れているからだと考える。しかし、掲句はこの場にぬかづいている自分をわずかに持て余す心地が頭をもたげている。それは、さまざまな欲に満ちた日常もそれほど悪くないことを知っているわが身が、眼前に繰り広げられている極楽絵巻のなかにさりげなく溶け込むことができないのだ。孤独でシニカルな視線は、常に影となって久女の身に寄り添っている。『杉田久女句集』(1969)所収。(土肥あき子)




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