君が代不起立処分に躍起の都教委。この信念模糊権力迎合体質集団をこそ消去せよ。(哲




2008ソスN4ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0142008

 部屋ごとに時の違へる万愚節

                           金久美智子

愚節(ばんぐせつ)、四月馬鹿、エイプリールフール。といっても、実際に他愛ない嘘をわざわざこの日のために用意している人は、少なくともわたしのまわりにはいない。起源はヨーロッパとも、インドともいわれるが、日本では「嘘」や「馬鹿」など、マイナスイメージの言葉を使っているせいか、いまひとつ浸透していない祭事のひとつだろう。しかし、俳句になるとその文字が持つ捨てがたい俳味が際立つ。身の回りの「愚かであること」はたやすく発見できるものだが、それは排除につながらず、どこか愛おしくなるようなものが多い。掲句は時計が時計の役目を果たしていないという現実である。しかし、そこには時を刻むことが唯一の使命のはずの時計に、それぞれ進み癖やら遅れ癖を持っているという人間臭さを愛おしむ視線がある。さらには「リビングは少し早めに行動したいから5分進めて」「寝室のはぴったり合わせて」という人為的な行為と相まって、ますます時計は時計の本意から外れていく。結局テレビに表示される時計を見るだけのために、テレビを付けたりしているのである。それにしても現代の家電にはあらゆるものに時計が付いている。微妙に狂った時計たちが休むことなくせっせと時を刻んでいるのかと思うと、ちょっと切ない。「続氷室歳時記」(2007・邑書林)所載。(土肥あき子)


March 3132008

 星条旗はしたしみやすし雨の花

                           秋元 潔

沢退二郎さんから詩人による俳句同人誌「蜻蛉句帳」36号(2008年3月17日付)が送られてきた。この一月に亡くなった尾形亀之助研究でも知られた詩人・秋元潔の追悼号である。別刷り付録に秋元潔句集『海』(1966・限定20部)からの抄出句集が付いていて、揚句はそのなかからの作品だ。詩人がまだ、中学生のころの句かと思われる。年代で言えば、1951年あたりだろうか。51年は講和条約調印の年。戦後も六年しか経っていない。当時の作者は基地の街ヨコスカに住んでいたので、星条旗は日常的に見慣れた旗だった。句ではその旗を「したしみやすし」と言っているが、この感情は戦中日本の初等教育を受けた者には、ごく自然なものだったのだろう。何に比べてしたしみやすかったのかと言うと、むろん日章旗に比べてである。アメリカの占領軍を解放軍ととらえた人たちも多かった時代だ。堅苦しく軍国主義的に育てられてきた少国民にとっては、彼らの自由さ奔放さはひどく眩しく見えたに違いないし、憧れもしただろうし、その象徴としての星条旗にしたしみを覚えた気持ちに嘘はないはずである。したがって、この句は文句なしのアメリカ讃歌であり憧憬歌であり、あれから半世紀を経た今にして読むと、その素朴な心情には微笑を誘われると同時に、しかしどこか痛ましい傷跡のようにも思われてくる。「雨の花」とは写生的なそれであるのは間違いないにしても、私にはなんだか少年・秋元潔の存在そのものでもあったように感じられてくるのを止めることができない。またこの句は上手とか下手とか言う前に、一つの時代の少年の素朴で自然な感情を詠んでいるという意味で貴重な記録となっている。他にも「早春はアメリカ国歌口ずさむ」「 WELCOME赤き文字なり風光る」など。(清水哲男)


March 3032008

 椿落ちてきのふの雨をこぼしけり

                           与謝蕪村

椿というと、どうしてもその散りかたを連想してしまいます。確かに増俳の季語検索で「椿」をみても、落ちたり、散ったりの句がいくつも見られます。これはむろん、句だけに限ったことではありません。若い頃に流行った歌の歌詞にも、「指が触れたら、ポツンと落ちてしまった。椿の花みたいに、恐らく観念したんだね。」というものがありました。椿の花の鮮やかな赤色と、女心の揺れ動きが、なるほどうまくつながっているものだと、いまさらながら感心します。ところで蕪村の掲句、これも花の落ちることを詠んでいますが、それだけではなく、他のものも一緒に落しています。ありふれたものの見方も、むしろそれをつきつめることによって、別の局面を持つことが出来るようです。目をひくのはもちろん「きのふ」の一語です。椿に降りかかった雨水が、花の上に貯えられたまま、一日は終えてしまいました。翌朝、水の重さに耐えられなくなったか、あるいはもともと花の散る時期だったのか、散って行くその周りに、水がもろともにこぼれて行く様子を詠んでいます。水の表面は朝日に、きらきらと輝いているのでしょうか。そのきらめきの中を、どうどうと落ちて行く椿。「きのふ」の一語が入ってくるだけで、句はひきしまり、全体が見事に整えられてゆきます。『四季の詞』(1988・角川書店)所載。(松下育男)




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