まずは阪神一勝。良い気分で井の頭に朝桜を見に行こう。混雑する前に帰るべし。(哲




2008ソスN3ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2932008

 もう少し生きよう桜が美しい

                           青木敏子

しいものを美しいと詠むのは、できそうでできない。美しい、と言ってしまわないでその美しさや感動を詠むようにと言われたりもする。その上この句の場合、好き嫌いは別として、美しいことは誰も異論がない桜である。桜が美しい、と言いきったこの句のさらなる眼目は、もう少し、にある。あと何回この桜が観られるか、とか、桜が咲くたびに来し方を思い出す、といった桜から連想される思考を経ているのではない。目の前の満開の桜の明るさの中にいるうちに、ふと口をついて出た心の言葉だろう。今を咲く桜は、咲き満ちると同時に翳り始め、散ってゆく。それでも目の前の桜はいきいきと輝いて、作者に素直な感動と力を与えた。何回も繰り返して読んでいるうち、考えて作ったのではなく感じて生まれたであろうこの句の、もう少し生きよう、という言葉がじんわりしみてくるのだった。今、咲き増えてゆく桜に、日毎細る月がかかっている。「短詩型文学賞」(「愛媛新聞」2007年12月15日付)所載。(今井肖子)


March 2832008

 入学児に鼻紙折りて持たせけり

                           杉田久女

の句、「折りて」が才能。言われてみると子どもに持たせるんだからそりゃあ折って渡すだろうと思うかも知れないが、俳句を作る段になれば言える表現ではない。努力では到達できない表現だろう。庶民の多くの階層に自己表現への道を拓いた虚子は女性には台所俳句と呼ばれた卑近な日常を詠むことを説いた。「もの」を写す「写生」ではなく、倫理観の方を優先させて良妻賢母の在り方を自己主張するように導いたのである。虚子がというより当時の社会がそういう「女」を求めたからだ。妻として母として自分が如何に健気に自分を殺して生きているか。当時の女流作品の多くはそんな世界が主流であった。入学児に鼻紙を持たせるのは母親としての愛情とあるべき配慮。ここまでが基準課題の合格点。ここからが才能である。久女は当時の男社会が要求する「女性らしさ」の定番を易々とクリアしてみせつつ、「折りて」に定番を超えた「自己」を噴出させる。講談社版『日本大歳時記』(1982)所載。(今井 聖)


March 2732008

 陽炎を破船のごとく手紙くる

                           仁藤さくら

らゆらと向こうの景色が揺れる陽炎は、陽射しに暖められた地面から立ち上る空気に光が不規則に屈折して起こる現象。家の回りを取り囲んでいる陽炎の波を渡ってやってきた角封筒の手紙が郵便受けにことんと落ちる。「破船」という表現には、ずっと待っていた手紙が送り先不明で迷ったあげくにやっと自分の元へ届けられたというより、思いがけなく受け取った手紙といったニュアンスが強いように思う。ずっと以前に心の中で別れを告げて離れてしまった場所や親しく交わっていた人々、そうした過去の知り合いから受け取った手紙だろうか。その人たちの暮らしてきた時間と自分が過ごしている時間のズレに手紙を受け取った作者のとまどいも感じられる。漂流の果てに船が行き着いた孤島に静寂があり、緑深い森があるように、陽炎の波で隔てられた世界と作者が住む場所にはまったく違う時間が流れている。現実から考えれば送り主から受取人まで一日か二日の時間であっても、その断絶を乗り越えてやってくる手紙には途方もなく長い時間が込められている。と、同時に陽炎の波を渡るときには破船だった手紙が作者の手に落ちた途端、真っ白な手紙に姿を変えたようで、春昼が持っているかすかな妖気すら感じられる。『Amusiaの鳥』(2000)所収。 (三宅やよい)




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