21世紀枠の華陵(山口県)、慶応に完封勝利。全く知らなかった学校だけどニコニコ。(哲




2008ソスN3ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2732008

 陽炎を破船のごとく手紙くる

                           仁藤さくら

らゆらと向こうの景色が揺れる陽炎は、陽射しに暖められた地面から立ち上る空気に光が不規則に屈折して起こる現象。家の回りを取り囲んでいる陽炎の波を渡ってやってきた角封筒の手紙が郵便受けにことんと落ちる。「破船」という表現には、ずっと待っていた手紙が送り先不明で迷ったあげくにやっと自分の元へ届けられたというより、思いがけなく受け取った手紙といったニュアンスが強いように思う。ずっと以前に心の中で別れを告げて離れてしまった場所や親しく交わっていた人々、そうした過去の知り合いから受け取った手紙だろうか。その人たちの暮らしてきた時間と自分が過ごしている時間のズレに手紙を受け取った作者のとまどいも感じられる。漂流の果てに船が行き着いた孤島に静寂があり、緑深い森があるように、陽炎の波で隔てられた世界と作者が住む場所にはまったく違う時間が流れている。現実から考えれば送り主から受取人まで一日か二日の時間であっても、その断絶を乗り越えてやってくる手紙には途方もなく長い時間が込められている。と、同時に陽炎の波を渡るときには破船だった手紙が作者の手に落ちた途端、真っ白な手紙に姿を変えたようで、春昼が持っているかすかな妖気すら感じられる。『Amusiaの鳥』(2000)所収。 (三宅やよい)


March 2632008

 春の風邪声を飾りてゐるやうな

                           高橋順子

うまでもなく「風邪」は冬の季語であり、風邪にまつわる発熱、咳、声、のど、いずれも色気ないことおびただしい。けれども「春の風邪」となると、様相はがらりと一変する。咳もさることながら、鼻にかかった風邪声には(特に女性ならば)どことなく色気がにじんでくるというもの。「春」という言葉のもつ魔力を感じないわけにはいかない。寒い冬に堪えて待ちに待った暖かい春を迎える日本人の思いには、また格別なものがある。秋でも冬でもない、やわらかくてどこかしら頼りない「春の風邪」だからこそ、「声を飾」ることもできるのであろう。声を台無しにしたり壊したりしているのではなく、「飾りて」と美しくとらえて見せたところがポイント。しかも強引に断定してしまうのではなく、「ゐるやうな」とソフトにしめくくって余韻を残した。そこに一段とさりげない色気が加わった。順子は泣魚の俳号をもつ俳句のベテランであり、すでに『連句のたのしみ』(1997)という好著もある。「連れ合い」の車谷長吉と二人だけの《駄木句会》を開いているが、掲出句はその席で作ったもの。この句に対し、長吉は即座に「うまいなあ。○だな。なるほどなあ、これ、うまいわ」と手ばなしで感心している。順子は「実感なんですよ、鼻声の」と応じている。なるほど、いくら「春の風邪」でも、男では「声を飾りて」というわけにはいかない。同じ席で「春めくや社のわきの藁人形」という、長吉を牽制したような句も作られている。『けったいな連れ合い』(2001)所収。(八木忠栄)


March 2532008

 爪先の方向音痴蝶の昼

                           高橋青塢

在では自他ともに認める方向音痴だが、それを確信したのは多摩川の土手に立ち、川下が分からなかったときだ。ゆるやかな流れの大きな川を目の前に、さて右手と左手、どちら側に海があるのかが分からない。なにか浮いたものが流れてはいないかと目を凝らしていると、「そんなことも分からないのか」とどっと笑われた。一斉に笑ってはいたが、おそらくその中の二、三人はわたし同様、風の匂いをくんくん嗅いでみたり、わけもわからず鳥の飛ぶ方角を眺めたりしていたと思うのだが。最近は携帯電話で現在位置を指示し、目的地をナビゲートしてくれる至れり尽くせりのサービスもあるが、表示された地図までもぐるぐると回して見ているのだからひどいものだ。そこを掲句では、下五の「蝶の昼」で、舞う蝶に惑わされたかのようにぴたりと作用させた。英語でぎっくり腰を「魔女の一撃」と呼ぶように、救いがたい方向音痴を「蝶を追う爪先」と、どこかの国では呼んでいるのかとさえ思うほどである。たびたび幻の蝶を追いかける我が爪先が、掲句によって愚かしくも愛おしく感じるのだった。〈青き踏む名を呼ぶほどに離れては〉〈このあたり源流ならむ囀れる〉『双沼』(2008)所収。(土肥あき子)




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