2008N323句(前日までの二句を含む)

March 2332008

 鉛筆を短くもちて春の風邪

                           岡田史乃

年は、我が家には受験生がいたため、家族全員風邪を引かないようにと、例年よりも注意をしていました。昨年末の予防接種はもちろん受け、手洗い、うがいを欠かしませんでした。一年間努力してきた結果が、父親の不摂生で台無しにしてしまってはと、気をつかいながら冬の日々をすごしていたのです。この句の、「春の風邪」という言葉を見てまず思ったのは、ですから、緊張から開放されて、ほっとしたところに風邪を引いてしまった人の姿でした。風邪による体のだるさと、陽気の暖かさによるだるさ、さらには緊張の解けた精神的なだるさも加わって、今日は家でゆっくりと休んでいるしかないのだというところなのでしょうか。それでも、どうしても今日中に連絡しなければならない事柄はあり、手紙を書き始めたのです。文字を書きながらも体はだるく、前へ前へと傾いて行きます。鉛筆の持ち方もいつもよりしっかりと、根元のところを持って、一文字一文字力を込めなければ、きちんとしたことが書けません。「春の風邪」と、「鉛筆を短く持つ」という動作の関係が、無理なく、ほどよい距離で繋がっています。『四季の詞』(1988・角川書店)所載。(松下育男)


March 2232008

 ジプシーの馬車に珈琲の花吹雪

                           目黒はるえ

ラジル季寄せには、春(八月、九月、十月)の項に、花珈琲(はなカフェー)とあるので、この句の場合も、珈琲(カフェー)の花吹雪、と読むのだろう。なるほどその方が上五とのバランスも調べもよい。前出の季寄せには「春の気候となり雨が大地を潤すと、珈琲樹は一斉に花を開く」とある。残念ながら、珈琲の花は写真でしか見たことがないが、白くてかわいらしい花で、その花期は長いが、一花一花はほんの二、三日で散ってしまうという。広大な珈琲園が春の潤いに覆われる頃、珈琲の花は次々に咲き、次々に散ってゆく。ジャスミンに似た芳香を放ちながら、ひたすら舞いおちる花の中を、ジプシーの馬車が遠ざかる。やがて馬車は見えなくなって、花珈琲の香りと共に残された自分が佇んでいる。花吹雪から桜を思い浮かべ、桜、日本、望郷の念、と連想する見方もあるかもしれない。けれど、真っ白な花散る中、所在を点々とするジプシーを見送るのは、ブラジルの大地にしっかりと立つ作者の強い意志を持った眼差しである。あとがきに(句集をまとめるきっかけは)「三十五年振りの訪日」とある。〈春愁の掌に原石の黒ダイヤ〉〈鶏飼ひの蠅豚飼ひの蠅生る〉など、ブラジルで初めて俳句に出会って二十七年、遠い彼の地の四季を詠んだ句集『珈琲の花』(1963)。(今井肖子)


March 2132008

 先生やいま春塵に巻かれつつ

                           岸本尚毅

読、文体が古雅。雅というよりも俗の方だから古俗ともいうべきか。近代俳句調と言ってもいい。その理由の最大のものは「先生や」の置き方にある。主格の「は」「が」に替わる「や」は子規、虚子の時代においては多く使用された。「や」「かな」「けり」には詠嘆などの格別の意味があるのかいなと思われるほどに、なんとはなく(安直に)あきれるほど多く使われた。そのために現代俳句では、(秋桜子以降を現代と呼ぶなら)切れ字が俳句の抹香臭さの元凶のひとつとされ、例えば山口誓子の句集『激浪』では所収の一二五四句の中に切れ字「や」はほとんど使われていない。戦後は、古典に眼を遣ると提唱した石田波郷などの影響で、切れ字使用に関しては俳句形式の特性として肯定的に捉える考え方が生まれ、その分、切れ字に関しては慎重な使い方が主流になった。「や」は、その前と後ろで切れなければいけないとの思い込みである。多義的な(言い換えればいいかげんな)「や」が姿を消し、それにともなって主格の「や」も今日ではほとんど見られない。作者はすでに古典になったこのいいかげんな「や」を用いることで俳句の古い文体を今日に生かそうとしている。内容は読んでの通り。この「先生」は作者の師波多野爽波であってもいいし、なくてもいい。「先生」は故人であってもいいし、現存する眼前の人でもいい。故人であれば春塵の中を昇天していくイメージ。(その場合は爽波は秋に逝かれたので対象にはならない)眼前のひとならば春塵の中を颯爽と去ってゆく師への思いである。念のために言うが、この句、一句一章の「や」である以外の可能性はまったくない。『平成秀句選集』(2007)所収。(今井 聖)




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