学生仕送り月9万5900円と過去最低水準、首都圏私大。親は大変だ。勉強しろよ。(哲




2008N319句(前日までの二句を含む)

March 1932008

 闇のちぶささぐりつつ見し春の夢

                           那珂黙魚

珂黙魚は詩人の那珂太郎。詞書に「幼年時」とある。幼いころ母親に抱かれて、夢うつつのなかで乳房をまさぐりつつ見た春の夢、それはいったいどんな夢だったのだろうか――。もちろん幼年ゆえ記憶にあるわけではない。だいいち幼年そのものが、まるごと夢のようなものであり、闇のようなものであると言えそうである。それもあわあわとして、どこかとりとめのない春の夢そのもののようなものであるにちがいない。いきなり「闇」と詠いだされるが、夜の暗闇のなかで乳房をさぐっている、などと限定して考えてしまうのは、むしろおかしい。幼年の定かではない記憶のなかでのこと。同時に闇そのもののような春の夢を意味しているとも言える。「闇―乳房―春の夢」の連なりがあわあわとした運びのなかで、有機的な相関関係をつくりだしていると言っていい。幼年時の朦朧とした春の夢が、茫漠とした闇のなかで懐かしくも、とりとめもなく広がってゆくように感じられて心地よさが残る。そうした夢のなかに、ゆったりと身をおくことがかなわなくなるのがオトナではないか。他に「ねむたくて眠られぬまま春の夢」という句もある。こちらは幼年ではなく、むしろオトナということになろうか。黙魚は俳句に造詣が深く、眞鍋天魚(呉夫)、司糞花(修)らと句会「雹の会」に所属している。『雹 巻之捌』(2007)所載。(八木忠栄)


March 1832008

 生まれては光りてゐたり春の水

                           掛井広通

まれたての水とは、地に湧く水、山から流れ落ちる水、それとも若葉の先に付くひと雫だろうか。どれもそれぞれ美しいが、「ゐたり」の存在感から、水面がそよ風に波立ち「ここよここよ」と、きらめいている小川のような印象を受ける。春の女神たちが笑いさざめき、水に触れ合っているかのような美しさである。春の水、春の雨、春雷と春の冠を載せると、どの言葉も香り立つような艶と柔らかな明るさに包まれる。小学校で習ったフォークダンス「マイムマイム」は、水を囲んで踊ったものだと聞いたように覚えている。調べてみるとマイムとはヘブライ語で水。荒地を開拓して水を引き入れたときの喜びの踊りだという。命に欠かせぬ水を手に入れ、それがこんなにも清らかで美しいものであることを心から喜んでいる感動が、動作のひとつひとつにあらわれている。今も記憶に残る歌詞の最後「マイム ヴェサソン」は「喜びとともに水を!」であった。なんとカラオケにもあるらしいので、機会があったら友人たちとともに身体に刻まれた喜びの水の踊りを、あらためて味わってみたいものだ。〈両の手は翼の名残青嵐〉〈太陽ははるかな孤島鳥渡る〉『孤島』(2007)所収。(土肥あき子)


March 1732008

 軽荷の春旅駄菓子屋で買ふ土地の酒

                           皆川盤水

年の春は、急にやってきたという感じだ。東京は、昨日一昨日といきなり四月並みの陽気。いつものようにコートを着て出かけたら、汗が滲み出てきた。急な春の訪れだけに、なんだかそわそわと落ち着かない。良く言えば、浮き浮き気分である。この句も、まさに浮き浮き気分。「軽荷の春旅」という定型に収まりきれない上五の八音が、浮き浮き気分をよく表している。句集の作品配列から推測して、この句は昭和三十年代のものと思われる。酒を買ったのは「駄菓子屋」とあるが、当時のなんでも屋、よろず屋のような店だったのだろう。現在のようにしかるべき土産物屋に行けば、なんでも土地の名産が揃っているという時代ではない。つまりこの駄菓子屋で買わなかったら、せっかく見つけた土地の酒を買いそびれるかもしれないわけだ。元来、地酒とはそういうものであった。幸いにして、気楽な旅ゆえ手荷物は軽い。味なんぞはわからないが、迷わず一升瓶を買い求めたのである。おそらく、駄菓子屋のおばさんと軽口の一つや二つは交わしただろう。その素朴な気持ちよさ。酒飲みにしかわからない浮き浮きした心持ちが、心地よく伝わってくる。同じ句集に「蚕豆や隣りの酒徒に親近感」もあり、これまた酒飲みの愉しさを印象づけて過不足がない。春風のなか、どこかにぶらりと行ってみたくなった。『積荷』(1964)所収。(清水哲男)




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