チベットでのここに来ての発火点は何なのか。五輪絡みと見るのは単純過ぎる。(哲




2008年3月18日の句(前日までの二句を含む)

March 1832008

 生まれては光りてゐたり春の水

                           掛井広通

まれたての水とは、地に湧く水、山から流れ落ちる水、それとも若葉の先に付くひと雫だろうか。どれもそれぞれ美しいが、「ゐたり」の存在感から、水面がそよ風に波立ち「ここよここよ」と、きらめいている小川のような印象を受ける。春の女神たちが笑いさざめき、水に触れ合っているかのような美しさである。春の水、春の雨、春雷と春の冠を載せると、どの言葉も香り立つような艶と柔らかな明るさに包まれる。小学校で習ったフォークダンス「マイムマイム」は、水を囲んで踊ったものだと聞いたように覚えている。調べてみるとマイムとはヘブライ語で水。荒地を開拓して水を引き入れたときの喜びの踊りだという。命に欠かせぬ水を手に入れ、それがこんなにも清らかで美しいものであることを心から喜んでいる感動が、動作のひとつひとつにあらわれている。今も記憶に残る歌詞の最後「マイム ヴェサソン」は「喜びとともに水を!」であった。なんとカラオケにもあるらしいので、機会があったら友人たちとともに身体に刻まれた喜びの水の踊りを、あらためて味わってみたいものだ。〈両の手は翼の名残青嵐〉〈太陽ははるかな孤島鳥渡る〉『孤島』(2007)所収。(土肥あき子)


March 1732008

 軽荷の春旅駄菓子屋で買ふ土地の酒

                           皆川盤水

年の春は、急にやってきたという感じだ。東京は、昨日一昨日といきなり四月並みの陽気。いつものようにコートを着て出かけたら、汗が滲み出てきた。急な春の訪れだけに、なんだかそわそわと落ち着かない。良く言えば、浮き浮き気分である。この句も、まさに浮き浮き気分。「軽荷の春旅」という定型に収まりきれない上五の八音が、浮き浮き気分をよく表している。句集の作品配列から推測して、この句は昭和三十年代のものと思われる。酒を買ったのは「駄菓子屋」とあるが、当時のなんでも屋、よろず屋のような店だったのだろう。現在のようにしかるべき土産物屋に行けば、なんでも土地の名産が揃っているという時代ではない。つまりこの駄菓子屋で買わなかったら、せっかく見つけた土地の酒を買いそびれるかもしれないわけだ。元来、地酒とはそういうものであった。幸いにして、気楽な旅ゆえ手荷物は軽い。味なんぞはわからないが、迷わず一升瓶を買い求めたのである。おそらく、駄菓子屋のおばさんと軽口の一つや二つは交わしただろう。その素朴な気持ちよさ。酒飲みにしかわからない浮き浮きした心持ちが、心地よく伝わってくる。同じ句集に「蚕豆や隣りの酒徒に親近感」もあり、これまた酒飲みの愉しさを印象づけて過不足がない。春風のなか、どこかにぶらりと行ってみたくなった。『積荷』(1964)所収。(清水哲男)


March 1632008

 春昼の角を曲がれば探偵社

                           坂本宮尾

語の春昼は、「しゅんちゅう」と読みます。のんびりした春の昼間の意味ですから、「はるひる」と訓で読んだほうが、雰囲気が出るようにも感じます。しかし、日々の会話の中で、「しゅんちゅう」にしろ「はるひる」にしろ、この言葉を使っているのを聞いたことがありません。俳句独特の言葉なのでしょう。句の意味は明解です。書かれていることのほかに、隠された意味があるわけでもなさそうです。それでもこの句が気になったのは、「角を曲がる」という行為と、「探偵社」の組み合わせが、ノスタルジーを感じさせてくれるからです。先の見えない世界へ体をよじって進んで行く。「角」という言葉には、どこか謎めいていて、心を震わせるものがあります。そんな心の震えの後に、「探偵社」という古風な言い方の建物が出てきます。どことなし、怪しげな雰囲気が感じられます。古びたビルの一角に、昔の映画で見たような探偵が、めったに開くことのない扉を見ながら、ひたすら仕事の依頼を待っているのでしょうか。本来は抜きさしならない状況で、人の行為を密かに調べる職業ではありますが、この言葉にはどこか、ほっとするものを感じます。春の昼、のんびりと角を曲がったわたしは、どこかの探偵にそっとつけられている。と、罪のない想像をしながら、わたしは角を、すばやく曲がるのです。『現代俳句の世界』(1998・集英社) 所載。(松下育男)




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