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March 1332008

 ペリカンのお客もペリカン春の虹

                           寺田良治

リカンの特徴はあの大きな嘴だろう。大きな口は魚を捕らえる網のような役割をするし、すくいとった魚を喉袋に蓄えることもできるらしい。雛たちは大きく口を開けた親ペリカンの嘴の中に頭を突っ込んで餌を食べるというから便利なものだ。山口県宇部市にある「ときわ公園」ではペリカンが放し飼いされており、公園内を自由に闊歩していると聞く。公園内ばかりでなく近くの幼稚園に遊びに出かけるカッタ君という有名ペリカンもいるそうだ。そんな楽しい公園ならペリカンとペリカンがばたっと道で出会ったら、どうぞいらっしゃいと自分の住まいへ招きいれ、まぁおひとつどうぞ、と垂れた下顎から小魚など取り出しそうだ。童話に出てきそうなユーモラスなペリカンの姿がふんわり柔らかな春の虹によくマッチしている。ペリカンが向かい合っている景を切り口に広げられた明るい物語に思わずにっこりしてしまう。多忙な現実に埋没してしまうと物事を一面的に捉えがちだが、作者のように柔軟な頭で角度を変えて見れば何気ない現実から多彩な物語を引き出せるのだろう。「春ずんずん豚は鼻から歩き出す」「まんぼうのうしろ半分春の雲」などうきうきと春の気分を満載した句が素敵だ。『ぷらんくとん』(2001)所収。(三宅やよい)


April 2342009

 珈琲や湖へ大きな春の虹

                           星野麥丘人

琲は作者自身によってブラックとルビが振ってある。珈琲(ブラック)や、と濃く熱く入れた飲み物に詠嘆しているわけで、しかも珈琲を飲んでいる眼前の湖に淡く大きな虹がかかっている。阿部青鞋に「天国へブラック珈琲飲んでから」という句があったように思うが、この句は青鞋の思いに答えたかのような色合いである。春の虹は夏の虹に比べると色も淡く、たちまちのうちに消えてしまう性質を持っているようだが、それだけに美しく名残惜しいものだろう。ゆっくりと珈琲を飲み終わるころには虹は失せて、すっかり元の光景に戻っているのかもしれない。麥丘人(ばくきゅうじん)の句は事実だけを述べているようで、なんともいえない老年の艶のようなものがあり、この句も口に入れると淡々と解ける和菓子のような味わいだ。日々の生活に追われるなかで麥丘人の句を読むと肩の力がほんの少し抜けるような気がする。『燕雀』(1999)所収。(三宅やよい)


March 2632015

 携帯電話は悲しき玩具春の虹

                           守屋明俊

車で通勤する毎日、対面の七人掛けの席を見るとスマートフォンをのぞく人ばかりで本を読んだり、新聞を読んだりする人はほとんどいない。かくいう私もタブレットと二つ折りの携帯電話を持ち歩き四角い画面と向き合っているわけで、考えれば携帯電話やパソコンのなかった時代と生活実態が全く違っている。SNSで日々やりとりをする時間は限りなく短縮され、ためいきや愚痴に過ぎないものがとめどなく流されてゆく。春の虹は夢のようにはかなく淡い存在、歌のいろいろを「悲しき玩具」と言った啄木と似た心持ちが携帯電話を握り占める心にはあるのかもしれない。『守屋明俊句集』(2014)所収。(三宅やよい)


February 1322016

 春の虹まだ見えるかと空のぞく

                           高濱年尾

の句は、現代俳句の世界シリーズの『高濱年尾 大野林火集』(1985・朝日新聞社)をぱらぱらめくっていて目に留まった。のぞく、という言葉は、狭いところから見るイメージがあり、どこから見ているのだろうと確かめると、年尾集中の最後「病床百吟」のうちの一句であった。「病床百吟」には、昭和五十二年に脳出血で倒れてから、同五十四年十月二十六日に亡くなるまでの作、百十一句が収められている。春の虹は淡く儚いイメージを伴うが、病室の窓からの景色になぐさめられていた作者にとっては、心浮き立つ美しさであったにちがいない。しばらくうとうとしたのか、窓に目をやるともう虹は見えない。ベッドから降りて窓辺に立ち空を見上げて虹の姿を探している作者にとってこの窓だけが広い世界との唯一のつながりであることが、のぞく、という言葉に表れているようで淋しくもある。「病床百吟」最後の一句は〈病室に七夕笹の釘探す〉。(今井肖子)




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