江藤慎一没。私と同年。守備は「自動車バック」で下手だったが、寂しいなあ。(哲




2008ソスN3ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0132008

 遊び子のこゑの漣はるのくれ

                           林 翔

月の空はきっぱり青い。春一番が吹いて以来冴返る東京だが、空の色は少しずつうす濁ってきて今日から三月。通勤途中、どこからとなく鳥の声が降ってくるようになり、しつこい春の風邪に沈みがちな気分を和らげてくれる。春の音はきらきらしている。鳥の声も、水の流れも、聞き慣れた電車の音も、人の声も。最近の子供は外で遊ばなくなった、と言われて久しいが、買い物袋を下げて通る近所の公園には、いつもたくさんの子供が集まって、ぶらんこやシーソーに乗り、気の毒なくらい狭いスペースでバレーボールやドッヂボールに興じている。遊び子という表現は、遊んでいる子供の意であろうが、いかにも、今遊んでいるそのこと以外何も考えていない子供である。その子供達の楽しそうな笑い声が、日の落ちかけた茜色の空に漣のように広がっていく。こゑ、と、はるのくれ、のやわらかな表記にはさまれた、漣。さざなみ、の音のさらさら感と、水が連なるという、文字から来る実感を持つこの一文字が効果的に配されている。今日より確実に春色の深まる明日へ続く夕暮れである。『幻化』(1984)所収。(今井肖子)


February 2922008

 灯点して妻現れず春の家

                           岩城久治

年ほど前、どこかの年鑑でこの句を最初眼にしたとき、尋常ならざる気配を感じたのだった。帰宅して暗い部屋に灯を点す。誰も現れない。現れるはずの、というより既に灯を点して待っているはずの妻がいないのだ。買い物など用事があって予定通りの不在なら妻現れずというだろうか。そして「春の家」の不思議さ。春という季題を用いる場合、それを「家」の形容に用いるのは、ふつうなら、特に伝統派なら、繊細さの欠けた用法とするところだ。季節感を持たない「家」に安直に「春」を重ねたと。しかも「春の家」はイメージとしては茫とした明るさを提示する。つまりこの句は何か変なのだ。日常を描いていながらこの叙述から湧き起こってくる違和感は何だろうと考えていくうち、この「妻」はひょっとして既にこちら側の世界にいないのではなかろうかという推測を抱くに至る。そんな感想を持ってしばらくして、作者が妻を亡くされた直後の作という事実をどこかで眼にした。思いはどこかで言葉に浸透し、形式と一緒になって言葉が持っている機能の限界を超えて鑑賞者に伝わる。どんなに言葉の機能を探り規定しても、そこからはみ出す「霊」のごときものがある。作者の名や作者の人生がわからなければ鑑賞できないのは俳句が芸術性において劣っている証拠だという「第二芸術」の問題提起が戦後あった。妻が死んだとも言わず、それを暗示する暗い内面を書き記すでもなく、それでもその深い悲しみが伝わる。これを形式の恩寵と言わずになんと言おう。桑原武夫さんにこの句を見せてみたい。『平成俳句選集』(1998)所収。(今井 聖)


February 2822008

 椿落ちて椿のほかはみなぶるー

                           小宅容義

の春と呼ばれる二月の空は明るく、それでいて冬の冷たさをとどめた美しい色をしている。真っ赤な椿が地面に落ちたあと、椿を見ていた視線を空に移したのか、それとも水際にある枝から水面へ花が落ちたのか。作者の目に青が大きく広がる。ついさっきまで咲き誇っていた花が何の前触れもなく首ごともげて地面に落ちる。その突然の散り方が、椿が落ちたあとの空白を際立たせる。散る椿に視点を置いて詠まれた句は多いが椿が散ったあとの空白を色で表現した句はあまりないように思う。ブルーではなく「ぶるー」と平仮名で表記したことで今までに自分が見た水色が、空色がつぎつぎ湧き上がってくる。ヘブンリー・ブルー、ウルトラマリン、群青色、などなど、どの「ぶるー」が赤い椿に似合うだろうか。それとも「ぶるー」は色ではなく椿を見ている人の気分だろうか。いったん緩んだ寒気がぶり返したこの頃だとぶるっとくる、体感的な寒さも思われる。リフレインの音のよろしさと最後のひらがなの表記が楽しい。作者は大正15年生まれ。「鴨落ちて宙にとどまる飛ぶかたち」「新らしきほのほ焚火のなかに淡し」など時間の推移を対象に詠みこんだ句に魅力を感じた。『火男』(1980)所収。(三宅やよい)




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