2008ソスN2ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2622008

 あいまいなをとこを捨てる春一番

                           田口風子

週土曜日、2008年2月23日。関東地方では昨年より9日遅く春一番が吹いた。鉄道は運転を一時中止し、老朽化したわが家を揺らすほどの南風は、春を連れてくるというより、冬を吹き飛ばす奔出のエネルギーを感じる。だからこそ、過去を遮断し決断する掲句の意気込みがぴったりくるのだろう。先月末に〈春待つや愚図なをとこを待つごとく 津高里永子〉を採り上げたが、掲句がハッピーエンドの後に控えた後日談に思えてしかたがない。冬の間、かわいいと思った不器用な男も、春先になればなぜか欠点ばかりが見えてくる。なにもかもすてきに思えるロマンス期が過ぎて、恋愛の継続に不安や疑問が頭をもたげる時期に激しい春一番が背中を押してくれたようなものだ。しかし、春一番が吹いたあとは、寒冷前線南下の影響で必ず冷たい日々が待っている。捨てた女の方にだってすぐに幸せが待っているわけではない。どちらも本物の春を目指してがんばれ♪〈秋の声聞く般若面つけしより〉〈すひかづら後ろより髪撫でらるる〉『朱泥の笛』(2008)所収。(土肥あき子)


February 2522008

 師の影をしっかり踏んで春の雪

                           鈴木みのり

はは、こりゃ面白いや。もちろんこの句は「三尺下がって(「去って」とも)師の影を踏まず」を踏まえている。弟子が師に随行するとき、あまり近づくことは礼を失するので、三尺後ろに離れて従うべきである。弟子は師を尊敬して礼儀を失わないようにしなければならないという戒めだ。でも、春の雪は解けやすく、滑りやすい。そんな戒めなど、この際はどうでもよく、とにかく転ばないようにと「師の影」をしっかり意識して踏みながら随いてゆくのである。ところで、この戒め。ネットで見ていたら、まったく別の解釈もあるそうで、概略はこうだ。師の影を踏むほどの近くにいると、視点がいつも師と同じになるために、それでは師を越えられない。せいぜいが師の劣化コピーにしかなれないので、常に師からは少し離れて独自の視点を持つべきだという教訓というものだ。どこか屁理屈めいてはいるが、この解釈で掲句を読み直すと、滑って転ばぬようにという必死は消えてしまい、どこまでも師と同じ視点に立ちたい必死の歩行ということになる。こちらはこちらで、哀れっぽいユーモアが感じられて面白い。作者は「船団」のメンバーだから、いずれにしても影を踏まれているのはネンテン氏だろうな。『ブラックホール』(2008)所収。(清水哲男)


February 2422008

 自転車に積む子落すな二月の陽

                           長田 蕗

の句が、どこかユーモラスに感じられるのは、子供を自転車に「乗せる」のではなく、「積む」と言っているからなのでしょう。まるで荷物を放り投げるように、子供を扱っています。さらに、「落すな」という命令言葉からも、それを発する人の心根の優しさを感じることができます。その優しさは、「二月の陽」の光のあたたかさにつながっていて、太陽の明るい光が、そのまま句全体を照らしているようです。わたくしごとですが、かつて、40近くになって、初めての子供を授かりました。ありがたくはありましたが、いきなりの双子の子育ては、家内と二人、想像以上に大変でした。順繰りに夜泣きを繰り返す時期も過ぎ、外出できるようになるまでは、ほとんど満足に睡眠をとったこともありませんでした。ですから、自転車の前後に籠を取り付けて、子供を乗せて外を走れるようになったときの爽快感は、今でも忘れることができません。それは単に、春風の気持ちよさだけではなく、子供がやっとここまで育ったぞという、安堵感をも伴ったものでした。「積む子落すな」を、単に自転車から落すなと読めばよいところを、子供たちの行く末の道をしっかりと見届けろよと深読みしてしまうのは、我ながらしかたがないかなと、思うのです。『鑑賞歳時記 春』(1995・角川書店)所載。(松下育男)




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