探していた山田稔『北園町九十三番地』がぶらりと入った図書館に。ラッキー。(哲




2008ソスN2ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1922008

 ふらここや空の何処まで明日と言ふ

                           つつみ眞乃

日二十四節気でいうところの雨水(うすい)。立春と啓蟄に挟まれたやや地味な節気である。暦便覧には「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となれば也」とあり、天上から降るものが雪から雨に替わり、積もった雪も溶け始める頃を意味する。三島暦では「梅満開になる」と書かれている通り、少しあたたかい地域ではもうそこかしこで春を実感することができるだろう。掲句では「ふらここ」が春の季語。空中に遊ぶ気分は春がもっともふさわしい。ぶらんこを思いきり漕ぐとき、一番高い場所ではいつもは見えない空の端を一瞬だけ見ることができる。なんとなくちらっと見えたあたりに本物の春がきているような、ずっと向こうの明日の分の空を覗くような気分は楽しいものだ。しかしふと、丸い地球には日付変更線が確かにどこかに引かれていて、はっきりあそこは今現在も今日ではないのだと考えているうちに、くらくらと船酔いの心地にもなるのだった。〈息かけて鏡の春と擦れ違ふ〉〈羽抜鳥生きて途方に暮れゐたる〉『水の私語』(2008)所収。(土肥あき子)


February 1822008

 子雀に槍や鉄砲や帷子や

                           ふけとしこ

語は「子雀(雀の子)」で春。春とはいっても晩春に近いころである。雀の子は孵化してから二週間ほどで巣立ちをし、その一週間後には親と別れる。ほとんど「世間」の右も左もわからぬうちに、独立してしまう(させられてしまう)というわけだ。そんな子雀の周囲に、帷子(かたびら)はともかく、槍や鉄砲が突然に出現するのだから、おだやかではない。目を真ん丸くしている子雀の様子が、可愛らしくもあり可哀想でもあり……。ご存知の読者もおられるだろうが、これらは三つとも「雀」という名前のついた雑草である。「雀の槍」、「雀の鉄砲」、「雀の帷子」。いずれも地味な花をつける。「烏瓜」に対応して「雀瓜」があるように、植物界での雀は小さいという意味で使われることが多いようだ。調べてみたら、雀の槍の「槍」は武器としてのそれではなくて、大名行列の先頭でヤッコさんが振っている毛槍のことだそうである。たしかに、形状が似ている。ただし、雀の鉄砲はずばり武器としてのそれを指し、同様にこれも形が似ていることからの呼称だという。子雀の前に三つの雀の名のつく植物を集めた野の花束のような一句。生命賛歌である。『草あそび』(2008)所収。(清水哲男)


February 1722008

 春浅し空また月をそだてそめ

                           久保田万太郎

こをどうひっくり返しても、わたしにはこんな発想は出てこないなと思いながら、掲句を読みました。昔、鳥がいなかったら空のことはもっと分かりにくかっただろうという詩がありました。それを読んだときにもなるほどと、うならされましたが、この句にもかなり驚きました。日々大きくなって行く月の現象を、作者はそのままには放っておきません。これは何かが育てているからその嵩(かさ)を増しているのだと考えたのです。それも、よりにもよって空が育てたとは、なんとも大胆な発想です。「そだてそめ」といっています。まだ寒さの残る春の初めの空に、いったん欠けた月は、ちょうどその折り返し点にいるようです。だれかが手で触れれば、そのままそだちはじめる。「そだてそめ」、サ行の擦り寄ってくるような音がひらがなのまま、わたしたちに静かに入ってきます。多少強引な発想ではありますが、言われてみればなるほど美しく、不自然な感じがしません。句とは、なんと心に染み込むものかと、あらためて思いました。「春浅し」、今夜はこの句を思い出しながら、月を見てしまうんだろうな。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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