♪雲にそびゆる高千穂の高根おろしに草も木も……。紀元節の歌を歌えるトシだ。(哲




2008ソスN2ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1122008

 春の雪ふるふる最終授業かな

                           巻 良夫

校三年の最後の「授業」だろう。三月のはじめには卒業式があるので、最終授業は二月の中旬から下旬のはじめくらいか。最終授業を受ける気持ちは、もとより生徒それぞれに違うのだが、ただ共通の感慨としては、やはり今後はもう二度とみんなでこんなふうにして一緒に勉強をすることはないという惜別のそれだろう。この授業が好きか嫌いかなどは問題外であり、誰もがやがて否応なく訪れてくる別れの時を意識して、平素よりも神妙な顔つきになっている。折りから、外は春の雪だ。「ふるふる」と言うくらいだから、かなり激しくぼたん雪が降っている。そしてこの激しい降りが、教室内のみんなの心情をいっそう高ぶらせる。みんながセンチメンタルな気分に沈んでゆく。それは一種心地よい哀感なのでもあり、また暗黙のうちに連帯感を高める効果も生むのである。かくして後年には甘酸っぱい思い出となるのであろう最後の授業は、表面的には実に淡々と、いつもと同じように終わりに近づいていくのだった。現代俳句協会編『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


February 1022008

 泪耳にはいりてゐたる朝寝かな

                           能村登四郎

語は朝寝。しかしこの朝寝は、朝寝、朝酒、朝湯と歌われているものとはだいぶ様子が違います。のんびりと朝寝をしていたのではなく、前の夜に眠れなかったことが、思いのほか目覚めを遅くしたものと思われます。眠れないほどの悩みとはいったい何だったのでしょうか。手がかりは泪しかありません。なぜ視覚をつかさどる目という器官が、同時に悲しみを表現するためにもあるのだろうと、不思議に思ったことがあります。その悲しみが限界を越えた所で、人はここから水をこぼします。眠れずに心を痛めたあげくの泪が、幾すじも頬をつたい、耳にたまってゆくのです。昼日中の泪なら、泣けば心が晴れるということもあるかもしれません。でも、この泪はそのまま翌日に持ち越しているようです。いつまでも寝ているわけにも行かず、起き上がり、身支度をした頃には、もちろん耳に入った泪はぬぐいさられています。それにしてもわたしは、この人がその日を、どのように乗り越えたのかを、どうしても想像してしまいます。目と、耳と、悲しみを二箇所にもためた人が、どのように悲しみを乗り越えたのかを。『現代俳句の世界』(1998・集英社)所載。(松下育男)


February 0922008

 黒といふ色の明るき雪間土

                           高嶋遊々子

京に今週三度目の雪の予報が出ている。しかしまあ、降ったとしても一日限り、翌日は朝からよく晴れて、日蔭にうっすら青みを帯びた雪が所在なげに残っているものの、ほとんどがすぐ消えてゆくだろう。雪間とは、長い冬を共に過ごした一面の雪が解けだして、ところどころにできる隙間のことをいい、雪の隙(ひま)ともいう。雪間土とは、そこに久しぶりに見られる黒々とした土である。雪を掻いた時に現れる土は凍てており、まだ眠った色をしているのだろう。それが、早春の光を反射する雪の眩しさを割ってのぞく土の黒は、眠りから覚め、濡れて息づく大地の明るさを放っている。よく見ると、そこには雪間草の緑もちらほらとあり、さらに春を実感するのだろう。残念ながら、私にはそれほどの雪の中で冬を過ごして春を迎えた経験はないが、黒といふ色、という、ややもってまわった表現が、明るき、から、土につながった瞬間に、まるで雪が解けるかのような実感を伴った風景を見せてくれるのだった。「ホトトギス新歳時記」(1986・三省堂)所載。(今井肖子)




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