横浜市営地下鉄が席譲りをうながすマナー向上員を乗車させる。腹立たしい話。(哲




2008ソスN2ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0522008

 いちまいの水となりたる薄氷

                           日下野由季

季に水の上にうっすらと張った氷を透明な蝉の羽に似ているということで「蝉氷(せみごおり)」と呼ぶが、立春を迎えた後では薄氷となる。うすごおり、うすらい、はくひょう、どんな読み方をしても、はかなさとあやうさの固まりのような言葉だ。日にかざし形状の美しさを見届けられる硬質感を持つ蝉氷と、そっと持ち上げれば指と指の間でまたたくまに水になってしまうような薄氷、そのわずかな差に春という季節が敏感に反応しているように思う。自然界のみならず、生活のなかで氷はきわめて身近な存在だが、個体になった方が軽くなる液体はおおよそ水だけ、という科学的不思議がつい頭をもたげる。この現象への詳細な根拠については、普段深く考えないことにする扉に押し込んでいるのだが、こんな時ふいに開いてしまい、結局理解不能の暗部へとつながっている。そのせいか「氷がとける」とは、どこか「魔法がとける」に通い合い、掲句の「いちまいの水」になるという単純で美しい事実が、早春の光によって氷が元の身体に戻ることができた、という児童文学作品のような物語となってあらためて立ち現れてくるのだった。〈はくれんの祈りの天にとどきけり〉〈ふゆあをぞらまだあたたかき羽根拾ふ〉『祈りの天』(2008)所収。(土肥あき子)


February 0422008

 書を校す朱筆春立つ思あり

                           柴田宵曲

春。と言っても、まだ寒い日がつづく。東京は、昨日の雪でまだ真っ白。立春の本意は「春の『気』が立つ」ということだから、気候的に春が訪れるというのではなく、とくに現代ではむしろ心理的な要因としての意味合いが濃い。活版時代の編集者の句だ。立春の句は自然や外界に目を向けた句が多いなかで、室内での仕事の「気」を詠んでいて、それだけでも珍しいと言えるだろう。実際、校正は砂を噛むような地道な仕事だ。私が編集者になりたてのころに、ベテランの校正マンから教わったのは「校正の時に原稿を読んではいけない。その原稿に何が書いてあるのかわからないところまで文字をたどることに徹しないと、校正は完璧にはできない」ということだった。作者もまたそのように文字を追っているのだろうが、今日から暦の上では春だと思うと、同じ朱筆を入れるのにもどこかこれまでとは違った「気」が乗ってくると言うのである。折しも今週からは「俳句界」の校正が忙しくなってくる。赤ペンを握りながら、たぶんこの句を思い出すのだろう。原稿を読んでは駄目だ。その言葉といっしょに。「合本俳句歳時記・第三版」(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


February 0322008

 糸電話ほどの小さな春を待つ

                           佐藤鬼房

のひらで囲いたくなるような句です。どこか、夏目漱石の「菫程な小さき人に生れたし」(増俳1997.04.05参照)という句を思い出させます。どちらも「小さい」という、か弱くも守りたくなるような形容詞に、「ほど」という語をつけています。この「ほど」が、その本来の意味を越えて、「小さい」ことをやさしく強調する役目をしています。さて、今年の冬はいつにもまして寒く感じましたが、早いもので明日は立春になります。ということで本日は節分。この日にはわたしはたいてい鬼の役割をしてきましたが、子供が大きくなってからはそれもなくなりました。「節」といい「分」といい、昔の人はよほど寒さに区切りをつけたかったものと思われます。掲句、「糸電話」を「小さい」ことの喩えに使うことに、異議をとなえる人もいるかもしれません。しかし、感覚としてわからないでもありません。糸のほそさ、たよりなさ、そこに発せられる声の小ささ、あるいは会話のなかみのけなげさ、そのようなものがない交ぜになって、こういった発想がでてきたのでしょう。「春を待つ」人が、冷たい手で糸電話を持つ。その糸の先は、おそらくもう春なのです。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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