東京地方は雪になるやもしれぬという予報士も。ま、たいしたことはなさそう。(哲




2008ソスN1ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2912008

 春待つや愚図なをとこを待つごとく

                           津高里永子

辞苑の「愚図(ぐず)」の項は、「動作がにぶく決断の乏しいこと。はきはきしないこと。またそういう人」と、まるで役に立たぬ人のようにばっさり斬られている。しかし「ぐず」という日本語には、ことに女性が異性に対して言葉に出す場合には、単に侮蔑だけではなく、「宿六」などと同じ甘やかなのろけも多少含まれる。この語感の、のんびりとしたぬくみが、春待ちの気分と掲句をしっくり結びつけているところだろう。春が訪れるまでの三寒四温。あたたかかったり寒かったり、せっかちのわたしなどは「一体今日はどっちなの」と、どこに向けるともなく八つ当たりしてしまうのだが、これを「愚図な男」と形容したところにも、待つ側の余裕や貫禄が感じられ、おおらかに心地良い。まだまだ寒い日が続くが、日脚は着実に伸びている。ぐずで一途ゆえに切ないまでに魅力的な男、といえば思いっきりベタではあるけれど山本周五郎の『さぶ』でも読んで、今年はのんびり春を待とうかと思う。〈見えてくる綿虫じつとしてゐれば〉〈仕事しに行くかマフラー二重巻〉『地球の日』(2008)所収。(土肥あき子)


January 2812008

 今宵炉に桜生木も火となりぬ

                           吉田汀史

者に聞いたわけではないが、この句は謡曲「鉢木(はちのき)」を踏まえていると思う。私くらいの年代から上の人なら、誰もが知っている有名な伝説だ。「鉢木」とは盆栽である。ある大雪の夜、旅僧に身をやつした北条時頼が、上野国佐野で佐野源左衛門常世のもとに宿を求めた。貧乏な常世は何ももてなすものがないので、大事にしていた盆栽の梅・桜・松を惜しげもなく焚いて暖をとらせた。後に鎌倉からの召集に真っ先に駆けつけたとき(これが「いざ鎌倉」の語源)に、時頼から一夜のもてなしへの返礼として、梅・桜・松の名を持つ三つの土地を賜った、という話である。句の作者は、本当に桜の生木を燃やしたのだろう。そのときに、ふとこの話を思い出し、まさに「いざ鎌倉」的なたぎるものを身内に感じたのに違いない。生木は燃えにくい。が、いったん燃え出すと火勢が強く、その火照りは枯れ木の比ではない。だから「火となりぬ」というわけだが、故なくか故あってか、燃える生木の火照りさながらに、かっと身内に熱いものがたぎってくる感じが良く出ている。「合本俳句歳時記」(1987・角川書店)所載。(清水哲男)


January 2712008

 書物の起源冬のてのひら閉じひらき

                           寺山修司

味はそれほどに複雑ではありません。てのひらを閉じたり開いたりしていたら、なんだかこれが、書物のできあがった発想の元だったんじゃないかと、感じたのです。では、てのひらの何が、書物に結びついたのでしょうか。大きさでしょうか、厚さでしょうか、あるいは視線を向けるその角度でしょうか。また、てのひらを開いたり閉じたりするたびに違う思いがわいてくる。そのことが、本のページを繰る動作につながったのでしょうか。それとも、てのひらに刻まれた皺のどこかが、知らない国の不思議な文字として、意味をもって見えたのでしょうか。「冬の」という語が示しているように、このてのひらは、寒さにかじかんで、ゆっくりと開かれたようです。その動きのゆるやかさが、思考の流れに似ていたのかもしれません。ともかく、書物はなぜできたのかという発想自体が、寺山修司らしい素直さと美しさに満ちています。そんな感傷的な思いにならべて、具体的な身体の動きを置くという行為の見事さに、わたしはころりと参ってしまうのです。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)




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