ねんきん特別便、再送費用が1億7千万円。加入者を疑ってかかったツケだな。(哲




2008ソスN1ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2412008

 寒月や猫の夜会の港町

                           大屋達治

の句の舞台はフェリーや貨物船の停泊する大きな港ではなく、海沿いの道を車で走っているとき現れたかと思うとたちまち行過ぎてしまう小さな漁師町がふさわしい。金魚玉のような大きな電球を賑やかに吊り下げたイカ釣り漁船がごたごた停泊していて、波止場にたむろする猫たちがいる。彼らは家から出さぬように可愛がられた上品な飼い猫ではなく、打ち捨てられた魚の頭や贓物を海鳥と争って食べるふてぶてしい面構えのドラ猫が似合いだ。すばしっこくてずる賢くて、油断のならない眼を光らせた猫たちが互いの縄張りを侵さない距離をおいて身構える。寒月が冴えわたる夜、そんな猫たちがトタンの屋根の上に、船着場のトロ箱のそばに、黒い影を落としている。互いにそっぽを向いて黙って座っているのか、それとも朔太郎の「猫」に出てくる黒猫のように『おわあ、こんばんは』『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』と鳴き交わしているのか。どちらにしても三々五々集まってくる猫たちの頭上には寒月が白い光を放っている。「夜会」というちょっと気取った言葉が反語的に響いて、港町の猫たちの野趣をかえって際立たせるように思える。『寛海』(1999)所収。(三宅やよい)


January 2312008

 荒縄で己が棺負ふ吹雪かな

                           真鍋呉夫

句は穏かに楽しみたい、という人にとって掲出句は顔をそむけたくなるかもしれない。花鳥風詠などとはほど遠い世界。「荒縄」「棺」「吹雪」――句会などで、これだけ重いものが十七文字に畳みこまれていると、厳しく指摘されるだろうと思われる。私などはだからこそ魅かれる。私は雪国育ちだが、このような光景を見たことはない。けれども荒れ狂う吹雪のなかでは、おのれがおのれの棺を背負う姿が、夢か現のようにさまよい出てきても、なんら不思議ではない。吹雪というものは尋常ではない。人が生きるという生涯は、おのれの棺を背負って吹雪のなかを一歩一歩進むがごとし、という意味合いも読みとることができるけれど、それでは箴言めいておもしろくない。おのれがおのれの棺を背負っている。いや、じつはおのれの棺がおのれを抱きすくめている、そんなふうに逆転して考えることも可能である。生きることの《業》と呼ぶこともできよう。両者を括っているのは、ここはやはり荒縄でなくてはならない。呉夫の代表句に「雪女見しより瘧(おこり)おさまらず」がある。「雪女」も「雪女郎」も季語にある。しかし、それは幻想世界のものとして片づけてしまえば、それまでのものでしかない。「己が棺負ふ」も同様に言ってしまっては、それまでであろう。容赦しない雪が、吹雪が、「雪女」をも「おのれの棺負うおのれの姿」をも、夢現の狭間に出現させる、そんな力を感じさせる句である。掲出句にならんで「棺負うたままで尿(しと)する吹雪かな」の一句もある。『定本雪女』(1998)所収。(八木忠栄)


January 2212008

 いきいきと雪の雫の竹箒

                           菊田一平

年の東京は積もるような雪はまだ降っていないが、油断していると慣れない雪に往生することになる。門までの踏み石や、家の前のわずかな通り道だけでも、降り積もり固く凍りつかない前に雪を払っておくことは、なかなかの大仕事だ。ひと仕事が済んで、下げられた竹箒から働く人が流す汗のようにぽたぽたと雫がしたたり落ちている。「いきいきと」の形容を命ないものに結びつけるとき、過剰な主観に辟易することも多いが、竹箒にはついさきほどまで握られていた持ち主の体温がありありと残っているように感じられるためか、無理なく受け入れることができる。箒は利き腕や使い方によって、微妙な具合に癖もつくものだ。こうなると箒という道具は単なる掃除用具ではなく、ごく個人的な、気に入りの万年筆のペン先などに感じる、減り具合まで愛おしむことができる特別なもの、自分の分身のように思えてくる。ところで、「竹箒」で検索すると上位に表示される「天才バカボン」で登場するレレレのおじさんだが、彼が電気店の社長であり、妻は既に他界、五つ子が五組で25人の独立した子供がいるという克明な背景に思わず仰天したことも今回の竹箒検索のおまけである。〈なやらひの鬼の寝てゐる控への間〉〈仏蘭西に行きたし鳥の巣を仰ぎ〉『百物語』(2007)所収。(土肥あき子)




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