昨日の東京には本物の底冷え感がありましたね。慣れてないのでマイります。(哲




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January 2212008

 いきいきと雪の雫の竹箒

                           菊田一平

年の東京は積もるような雪はまだ降っていないが、油断していると慣れない雪に往生することになる。門までの踏み石や、家の前のわずかな通り道だけでも、降り積もり固く凍りつかない前に雪を払っておくことは、なかなかの大仕事だ。ひと仕事が済んで、下げられた竹箒から働く人が流す汗のようにぽたぽたと雫がしたたり落ちている。「いきいきと」の形容を命ないものに結びつけるとき、過剰な主観に辟易することも多いが、竹箒にはついさきほどまで握られていた持ち主の体温がありありと残っているように感じられるためか、無理なく受け入れることができる。箒は利き腕や使い方によって、微妙な具合に癖もつくものだ。こうなると箒という道具は単なる掃除用具ではなく、ごく個人的な、気に入りの万年筆のペン先などに感じる、減り具合まで愛おしむことができる特別なもの、自分の分身のように思えてくる。ところで、「竹箒」で検索すると上位に表示される「天才バカボン」で登場するレレレのおじさんだが、彼が電気店の社長であり、妻は既に他界、五つ子が五組で25人の独立した子供がいるという克明な背景に思わず仰天したことも今回の竹箒検索のおまけである。〈なやらひの鬼の寝てゐる控への間〉〈仏蘭西に行きたし鳥の巣を仰ぎ〉『百物語』(2007)所収。(土肥あき子)


January 2112008

 何もなし机上大寒来てゐたり

                           斎藤梅子

寒は「太陽が黄経三百度の点を通過するとき」と、歳時記に書いてある。……と言われても、よくわかりませんが(笑)。要するに、寒さの絶頂期ということだ。この机は居間や書斎のそれではないだろう。たとえば客間に据えてある黒檀か何かの机である。昔、母方の祖母の実家に厄介になっていたことがあるが、その家には玄関近くに大きな客間があった。ふだんは使われていない部屋だから、なんだか一年中寒々とした様子があった。たまに入ることがあると、真ん中に置かれている大きな机の上にはむろん何も置かれておらず、夏場でもひんやりとした感じだったことを覚えている。作者はそうした部屋に、たまたま大寒の日に入ったのだ。それでなくとも寒いのに、火の気のないがらんとした部屋の机の上には何もなく、いよいよ寒さが身に沁みて感じられたのだった。いや、何もないのではなくて、なんと「大寒が来ていた」と書かれているのは、フィクションというよりもほとんど実感からの即吟だろう。咄嗟に、そう思えてしまったのである。私はあまり擬人法を好きではないけれど、こうした咄嗟のインプレッションを述べるような場合には、ぴったり来る場合もあることはある。『現代俳句歳時記・冬』(学習研究社・2004)所載。(清水哲男)


January 2012008

 冬の雨下駄箱にある父の下駄

                           辻貨物船

関脇の、靴を収納する場所を今でも「下駄箱」というのだなと、この句を読みながら思いました。わたしが子供の頃には、それでも下駄が何足か下駄箱の中に納まっていました。けれど、マンションに「下駄箱」とは、どうにも名称がしっくりいきません。下駄というと、「鼻緒をすげる」というきれいな日本語を思い浮かべます。「すげる」というのは「挿げる」と書いて、「ほぞなどにはめ込む」という意味です。「ほぞ」という言葉も、なかなか美しくて好きです。さて掲句、たえまなく降り続く冬の雨から、玄関の引き戸を開けて、視線は薄暗い下駄箱に向かいます。その一番上の棚に、父親の大きな下駄がきちんと置かれています。寒い湿気が玄関の中に満ち、しっとりとした雰囲気を感じることができます。句は、父の下駄が下駄箱の中にあると、そこまでしか言っていません。しかしわたしにはこれが、「父の不在」を暗示しているように読めてしまいます。勝手な想像ですが、この家の主はもう亡くなっているのかもしれません。それでも日々履いていた下駄だけは、下駄箱のいつもの場所に置いておきたいという思いが込められているように感じるのです。この世の玄関に、その人がふっともどってきたときに、すぐに取り出せるように。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)




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