今年の初原稿は「週刊読書人」のための書評。この新聞に書くのは久しぶりだ。(哲




2008ソスN1ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0612008

 末の児に目くばせをして読む歌留多

                           吉田花宰相

めばだれしもが微笑んでしまうような、かわいらしい句です。季語は「歌留多」、もちろん新年です。昨今の、難解なマニュアルを読まなければはじめられないゲームとは違って、昔の遊びは、単純ではあるけれども、それだけにどんな年齢の子にも、その年齢にあった遊び方ができたように思います。歌留多を読んでいるのはお父さんでしょうか。日ごろは子供と時間を費やすことなど、ましてや一緒に遊ぶことなどめったにありません。子供たちにとっては、そのことだけでも、いつもの時間とは明確に区別された、特別な日であったのです。普通に遊べば当然のことながら、年齢の上の子が、次々と札を取ってゆきます。それでも泣きもせずに札に目を凝らしている末っ子に、一枚でも多く取らせてあげたいと思う気持ちは、親でなくとも十分にわかります。おそらく次の読み札は、末っ子のひざの前にある絵札だったのでしょう。「次はあれだよ」という目配せは、あたたかな、間違いのない親子間のコミュニケーションです。読み始めたとたんに札をとって得意げな顔をしている末っ子の顔。これ以上に大切なものは、めったにありません。『微苦笑俳句コレクション』(1994・実業之日本社)所載。(松下育男)


January 0512008

 鳥総松月夜重ねて失せにけり

                           風間啓二

けて、平成二十年も早五日、二日ほどで松もとれる。鳥総松(とぶさまつ)は、門松をとった後に、その松の梢を折って差しておくもの。鳥総はもともと、木こりが木を切った時、その一枝を切り株に立て、山の神を祀ったことをいい、鳥総松はこれにならった新年の習慣である。我が家の近隣の住宅街では、本格的な門松を立てる家はまずなく、たいていは松飾りを門扉に括りつけている。我が家の門柱は煉瓦の間に、頭が直径1.5センチほどの輪になったねじ釘が埋めこんであり、そこに松飾りを挿して括る。そして松がとれると、枝を折り、鳥総松とするが、近所では見かけない。十五日まで挿してあるので、小学生が登下校の道すがら、さわるともなくさわっていったりする。この句の場合は、本格的な門松の跡の地面に立てた鳥総松だろう。松の梢は、正月の華やぎの余韻のように、やや頼りない姿で立っている。そして一週間ほど経った朝、片づけようと表を見ると、なくなってしまっているのだ。風にさらわれたのか、犬がくわえていってしまったのか、夜々の月に、傾いだ一枝がひいていた影を思い出しつつ、「今年」が本格的に始動する。『俳句大歳時記』(1965・角川書店)所載。(今井肖子)


January 0412008

 雪の岳空を真青き玻璃とする

                           水原秋桜子

年の加藤楸邨先生をドライブで一の倉沢にお連れしたのは確か十四年前の晩秋だった。足腰が弱られていたために車を降りてからは車椅子。岩場を縫っての「吟行」になった。この前後の頃に何度先生をさまざまなところへお連れしたことだろう。「歩行的感動」という言葉を出して句作の機微を説明されたほど、実際にものに触れてつくることを旨とされていたので、外に出ることがかなわぬようになると、句が固定的な観念に頼り痩せてくることを避けようとされていたのだった。一の倉沢のてっぺんは雪を被っていたような気がする。覆いかぶさるように上空を囲った岩場の絶巓から木の葉がはらはらと落ちてきた。先生は句帖を開いて太字の鉛筆を持ち、ときおり何かを書き付けておられた。車椅子を押していた僕は上から覗き込んで手帖の中を見た。そこには上句として一の倉沢。行を変えて一の倉沢。次もまた。一の倉沢が三行並んでいた。この「一の倉沢」を、先生はその後推敲して句にされ発表されたような記憶があるが、どんな句だったか覚えていない。没後編まれた句集『望岳』には載っていない。秋桜子のこの句も谷川岳で詠まれた。おそらく一の倉沢だろう。ガラスのような青空から降ってきた木の葉を忘れられない。河出文庫『俳枕(東日本)』(1991)所載。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます