高校サッカー。昔大阪長居競技場でよく見た。寒いのでウィスキーを飲みながら。(哲




2008ソスN1ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0312008

 舞ふ獅子にはなれて笛を吹けりけり

                           安住 敦

子舞は悪魔を祓うとともにその年の豊作を願うのが目的という。獅子のおおきな口で頭を噛んでもらうと無病息災につながると言われるのも獅子が邪気払いのシンボルだからだろう。むかしは玄関先にも獅子舞が「舞いましょうか」と訪ねてきた覚えがあるが、今ではどうなのだろう。私は毎年近くの神社で年越の獅子舞を見ている。本殿の右横にある小さな神楽殿で笛に合わせて舞っている獅子を横目で見ながら初詣の列を進む。お参りが済んだあと焚き火を囲んで温かい甘酒が振舞われるのも魅力だ。掲句の獅子舞は舞台なのか街角なのかはわからないが、観客の視線は獅子の一挙一動に集中している。そこからすっと視線をずらして少し離れた笛の吹き手を描写している。笛は「ささら」と呼ばれる横笛でぴいひゃらと調子のよい節回しを奏でていることだろう。「吹けりけり」ときっぱりした表現が印半纏にぴっちりと身にあった股引をはいたきりりとした立ち姿を想像させる。大きな獅子が細く高い笛の音色に操られて激しく踊る。その熱狂の中心からふっと目を転じて「はなれて」笛を吹いている笛の吹き手を注視している冴え冴えとした視線に、俳人としての見つけどころを感じさせる。角川「俳句手帖」季寄せ(2003)所載。(三宅やよい)


January 0212008

 今朝の春玲瓏として富士高し

                           廣津柳浪

けてはや二日。冬とはいえ、正月はどこかしら春がいくぶんか近くなった気持ちを抑えきれない。「玲瓏(れいろう)」などという言葉は、今や死語に近いのかもしれない。「うるわしく照りかがやくさま」と『広辞苑』にあるとおり、晴ればれとして曇りのない天気である。霞たなびく春ではない。作者はどこから富士を望んでいるのか知りようもない。まあ、どこからでもよかろう。今でも、都内で高層ビルにわざわざ上がらなくても、思いがけない場所からひょっこりと富士山が見えたりして、びっくりすることがある。そのたびにやっぱり富士ってすげえんだと、改めて思い知らされることになる。空気が澄んでいて、いつもより一段と富士山が高く感じられるのであろう。あたりを払って高く感じられるだけでなく、その姿はいつになく晴ればれとしたものとして感受されている。「今朝の春」という季語は「初春」「新春」「迎春」などと一緒にくくられているところからも、春浅く、まだ春とは名ばかりといったニュアンスが含まれている。作者の頭には「一富士、二鷹、三茄子」もちらついていたのかもしれない。さっそうとしてどこかしらめでたい富士の姿。芭蕉の「誰やらが形に似たりけさの春」は春早々のユーモア。深刻・悲惨な小説を書いた柳浪にしては、からりとして晴朗な新春である。廣津和郎は柳浪の次男。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)


January 0112008

 妻よ天井を隣の方へ荒れくるうてゆくあれがうちの鼠か

                           橋本夢道

けましておめでとうございます。末永くよろしくの思いとともに、自由律の長〜い一句を掲句とした。子年にちなんで、ねずみが登場する句を選出してみたら、あるわあるわ150以上のねずみ句が見つかった。以前猫の句を探したときにもその数に驚いたが、その需要の元となるねずみはもっと多いのが道理なのだと納得はしたものの、現代の生活ではなかなか想像できない。しかし、〈長き夜や鼠も憎きのみならず 幸田露伴〉、〈新藁やこの頃出来し鼠の巣 正岡子規〉、〈鼠にジヤガ芋をたべられて寝て居た 尾崎放哉〉、〈しぐるるや鼠のわたる琴の上 与謝蕪村〉、〈寒天煮るとろとろ細火鼠の眼 橋本多佳子〉などなど、それはもう書斎にも寝室にも台所にも、家でも外でもそこらじゅうに顔を出す。どこにいても決してありがたくない存在ではあるが、あまりに日常的なため、迷惑というよりも「まいったなあ」という感じだ。掲句の屋根の上を走るねずみの足音にもにくしみの思いは感じられない。荒々しく移動していくねずみに一体なにごとが起きたのか、天井を眺めて苦笑している姿が浮かぶ。おそらく呼びかけられた妻も、また天井裏続きのお隣さんもおんなじ顔をして天井を見上げているのだろう。『橋本夢道全句集』(1977)所収。(土肥あき子)




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