今年も残すところあと10日。だんだん「数え日」モードに入ってきましたね。焦。(哲




2007ソスN12ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 21122007

 掘られたる泥鰌は桶に泳ぎけり

                           青木月斗

鰌と鰻の違いはどこかなどというと、奇異に思われるかもしれない。山陰の田舎では田んぼの用水路なんかで釣りをしていると三十センチくらいのやつがかかって、釣ったばかりは鰻か泥鰌かはたまた蛇かわからない。もっとも蛇は水中にいないので選択肢はふたつだ。髭があるのが泥鰌だよと釣り友達からあらためて教わったものだ。持って帰ると父が蒲焼にしてくれた。うまかった。山陰と泥鰌と言えば安来節。ヘルスセンターなどいたるところでやっていた。安来節名人がいて、割り箸を二本鼻の穴に挿して、泥鰌を取る仕草が実にリアルで大うけにうける。小学校の学芸会でもひょうきん者がよく出し物にしていた。加藤楸邨に「みちのくの月夜の鰻遊びをり」がある。楸邨は鰻が大好きだった。幼時、父親の転勤で東北地方に居たときなど、川でよく鰻を捕ったとのこと。小さいものをめそっこと言ってよく食べたとエッセーにもある。めそっこなら泥鰌とほとんど変らない大きさだろう。冬の田の土中を掘って入り込んだ泥鰌を捕ったあと、桶で泳がせて泥を吐かせる。そのあとは鍋か唐揚か。それもいいが、あの泥鰌の蒲焼をまた食べてみたい。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


December 20122007

 肉買ひに出て真向に吹雪山

                           金田咲子

ずこの俳句を読んだ私の頭に思い浮かんだのは肉を買いに出た作者の顔へ直に吹雪が吹きつけてくる景だった。だが、落ち着いて最後まで読み下してみれば「真向に吹雪」ではなく「真向に吹雪山」であり、吹雪いているのは、作者のいる場所ではなく、遠く雪雲に曇る正面の山であることがわかる。しかしそう理解した後も今度は暖かい家から吹雪の山へ飛び出していく作者の姿が見えてしまい、なかなか言葉通りの遠近感が戻ってこないのはなぜだろう。肉を買いに出る行為は日常の些事ではあるが、肉と吹雪がくっきりしたコントラストを形作っている。生々しく赤い肉には冷たさと同時に熱を呼ぶ力があり、吹雪には全てを白く覆いつくす暴力的なエネルギーがある。俳句では只事に思える出来事が言葉の組み合わせによって思わぬ像を結ぶときがある。言葉によって喚起される連想が意外なイメージを形作ることは、句会などでよく経験することだ。この句の場合は「肉」と「吹雪」の取り合わせの妙と、末尾の微妙な切れ方が読み手の想像力を刺激し、肉を買いに出るという日常的な行為が激しく吹雪く遠くの山へ肉を買いにゆくような不思議な距離感を感じさせるように思う。『現代俳句の新鋭』(1986)所載。(三宅やよい)


December 19122007

 ポストへ行く風尖らせる冬の月

                           岡本千弥

い冬の夜。そんなに急ぐなら、明朝早々にポストへ投函に行ったらよかろう、と言う人がいるかもしれない。しかし、朝早くといっても、人にはいろいろ事情がある。寒いとはいえ今夜のうちにポストへ、という人もあって当然。気が急いている手紙なのかもしれない。この句は「ポストへ行く」で切れる。凍るような月が、冬の夜風を一段と厳しく尖らせている。あたかも刃のように尖って感じられるのだろう。満月が耿々と照っているというよりは、刃のごとく月は鋭く尖っているのかもしれない。中途半端な月ではあるまい。どんな内容の手紙かはわからないが、この句から推察すれば、穏かなものでないほうがふさわしいように思われる。手紙の内容も、それを携えてポストへ向かう人の姿も、風も、月も、みな一様に尖っているように感じられる冬の夜。ポストも寒々しい様子で寒気に堪えて突っ立っているにちがいない。ファクシミリやインターネットの時代には、稀有な光景となってしまった。「春の月」や「夏の月」では、手紙の内容も「冬の月」とちがったものとして感じられる。そこに俳句の凄さがある。「冬〇〇」とか「冬の〇」という季語はじつに多い。普段、手軽に使っている歳時記には77種類も収められている。もっとも「冬の・・・」とすればきりがないわけだけれど。千弥の場合は、岡本文弥が与えた新内節の芸名が、そのまま俳号になった。「12月、透きとおる月の女かな」という句もある。句集『ぽかん』(2000)所収。(八木忠栄)




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