そそくさと忘年会をやり、そそくさと賀状を書き、そそくさと大掃除をして……。(哲




2007ソスN12ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 19122007

 ポストへ行く風尖らせる冬の月

                           岡本千弥

い冬の夜。そんなに急ぐなら、明朝早々にポストへ投函に行ったらよかろう、と言う人がいるかもしれない。しかし、朝早くといっても、人にはいろいろ事情がある。寒いとはいえ今夜のうちにポストへ、という人もあって当然。気が急いている手紙なのかもしれない。この句は「ポストへ行く」で切れる。凍るような月が、冬の夜風を一段と厳しく尖らせている。あたかも刃のように尖って感じられるのだろう。満月が耿々と照っているというよりは、刃のごとく月は鋭く尖っているのかもしれない。中途半端な月ではあるまい。どんな内容の手紙かはわからないが、この句から推察すれば、穏かなものでないほうがふさわしいように思われる。手紙の内容も、それを携えてポストへ向かう人の姿も、風も、月も、みな一様に尖っているように感じられる冬の夜。ポストも寒々しい様子で寒気に堪えて突っ立っているにちがいない。ファクシミリやインターネットの時代には、稀有な光景となってしまった。「春の月」や「夏の月」では、手紙の内容も「冬の月」とちがったものとして感じられる。そこに俳句の凄さがある。「冬〇〇」とか「冬の〇」という季語はじつに多い。普段、手軽に使っている歳時記には77種類も収められている。もっとも「冬の・・・」とすればきりがないわけだけれど。千弥の場合は、岡本文弥が与えた新内節の芸名が、そのまま俳号になった。「12月、透きとおる月の女かな」という句もある。句集『ぽかん』(2000)所収。(八木忠栄)


December 18122007

 かまいたち鉄棒に巻く落とし物

                           黛まどか

会的センスを求められがちな作者だが、何気ない写生句にも大きな魅力がある。通学路や公園の落とし物は、目の高さあたりのなにかに結ばれて、持ち主を待っているものだ。それはまるで公園のところどころに実る果実のように、マフラーや給食袋などがいつとはなく結ばれ、またいつとはなくなくなっている。ひとつふたつと星が出る頃、ぽつんと明かりが灯るように鉄棒に巻かれた落とし物が人の体温を伝え、昼間鉄棒にまといついていた子どもたちの残像をひっそりとからみつかせている。また、かまいたち(鎌鼬)とは、なにかの拍子でふいに鎌で切りつけられたような傷ができる現象をいう。傷のわりに出血もしないことから伝承では3匹組の妖怪の仕業などとも言われ、1匹目が突き飛ばし、2匹目が鎌で切り、3匹目が薬を塗る、という用意周到というか、必要以上の迷惑はかけない人情派というか、なんとも可愛らしい。この妖怪じみた気象現象により、夜の公園でかまいたちたちがくるくると遊んでいるような気配も出している。〈春の泥跳んでお使ひ忘れけり〉〈ひとときは掌のなかにある毛糸玉〉『忘れ貝』(2007)所収。(土肥あき子)


December 17122007

 クリスマスケーキ買いたし 子は散りぢり

                           伊丹三樹彦

リスマスケーキとは、つまりこういうものである。むろん買って帰ってもよいのだが、老夫婦だけのテーブルに置くのはなんとなく侘びしい。ケーキのデコレーションが華やかなだけに、である。子供たちがまだ小さくて、夫婦も若かった頃には、ケーキを食卓に置いただけで家の中がはなやいだ。目を輝かせて、大喜びする子供たちの笑顔があったからだ。その笑顔が、親にとってはケーキよりももっと美味しいものだったのだ。そんなふうだった子供らも、やがて次々に独立して家を離れていった。詩人の以倉紘平は「どんな家にも盛りの時がある」と書いているが、まことにもってその通りだ。毎年年末には、作者のような思いで、ケーキ売り場を横目に通り過ぎる人は多いだろう。私も既に、その一人に近い。伊丹三樹彦、八十七歳。この淋しさ、如何ともなし難し。もう一句。「子が居る筈 この家あの家の門聖樹」。『知見』(2007)所収。(清水哲男)




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