Macの国内シェアが倍増という。ご同慶のいたりだが、もう新0S競争はやめてね。(哲




2007ソスN12ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 10122007

 歳晩の夕餉は醤油色ばかり

                           櫂未知子

はそうでもないかもしれないが、昔の「歳晩(年の暮)」の食卓情景は、たしかにこういう感じだったと懐かしく思い出す。歳晩の主婦は、なにかと新年の用意に忙しく、あまり日々の料理に気を遣ったり時間をかけたりするわけにはいかなかった。必然的に簡単な煮しめ類など「醤油色」のものに依存して、そそくさと夕餉をやり過す(笑)ことになる。煮しめと言ったつて、正月用の念入りな料理とはまた別に、ありあわせの食材で間に合わせたものだ。したがって押し詰まれば押し詰まるほどに、食卓は醤油色になっていき、それもまた年の瀬の風情だと言えば言えないこともない。昔はクリスマスを楽しむ風習もなかったから、師走の二十日も過ぎれば、毎日の夕餉の食卓はかくのごとし。農家だったころの我が家は、晦日近くになると、夕餉の膳には餅が加わり、これまたこんがり焼いて醤油色なのである。食べ物のことだけを言っても、このように歳末の気分を彷彿とさせられるところが、俳句の俳句たる所以と言うべきである。「俳句界」(2007年12月号)所載。(清水哲男)


December 09122007

 右ブーツ左ブーツにもたれをり

                           辻 桃子

語はもちろんブーツ。なにしろこの句にはブーツしか描かれていません。その単純明快さが、読んでいて頭の中をすっと気持ちよくしてくれます。我が家も私以外は女性ばかりなので、冬になるとよく、このような光景を目にします。ただでさえ狭いマンションの玄関の中に、所狭しと何足ものブーツがあっちに折れ曲がったりこっちに折れ曲がったりしています。そのあいだの狭いスペースを探して、わたしは毎夜靴を脱ぐ羽目になります。たかが玄関のスペースのことですが、どこか家の力関係を表しているようで、あまり気持ちのいいものではありません。最近はブーツを立てておくための道具も(かわいい動物の絵などが描かれているのです)できているようで、この折れ曲がりは、我が家では見ることがなくなりました。右ブーツが左ブーツにもたれているといっています。「折れ曲がる」でもなく「倒れる」でもなく「もたれる」ということによって、どこか人に擬しているように読めます。ブーツそのものが、そのまま女性を連想させ、そこから何か物語めいた想像をめぐらすことも可能です。しかしここは、単にブーツがブーツにもたれているという単純で、それだけにユーモラスな様子を頭に思い浮かべるだけでよいのかなと、思います。それでちょっと幸せで、あたたかな気持ちになれるのなら。『微苦笑俳句コレクション』(1994・実業之日本社)所載。(松下育男)


December 08122007

 見て居れば石が千鳥となりてとぶ

                           西山泊雲

鳥は、その鳴き声の印象などから、古くから詩歌の世界では、冬のわびしさと共に詠まれ、冬季となっている。しかし実際には、夏鳥や留鳥のほか、春と秋、日本を通過するだけの種類もいるという。海辺で千鳥が群れ立つのを見たことがある。左から右へ飛び立ち、それがまた左へ旋回する時、濃い灰褐色から白に、いっせいにひるがえる様はそれは美しかった。この句の千鳥は川千鳥か。作者が見て居たのは河原、そこに千鳥がいることを、あまり意識していなかったのかもしれない。突然、いっせいに飛び立った千鳥の群、本当に河原の石が千鳥となって、飛び立ったように見えたのだろう。句意はそうなのだろうと思いつつ、なんとなく、意識が石へ向いてしまった。子供の頃、生きているのは動物だけじゃないのですよ、草も木もみんな生きているのです、と言われ、じゃあ石は?と思ったけれど聞けなかった。生命は石から誕生し最後には石に還る、という伝説もあるという。半永久的な存在である石が、千鳥となって儚い命を持つことは、石にとって幸せなんだろうか、などと思いつつ、ふっと石が千鳥に変わる瞬間を思い描いてみたりもするのだった。「泊雲」所収。(今井肖子)




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