ちょっと風邪気味かな。いや、気温が低いのでそんな気がするだけなのかなあ。(哲




2007ソスN12ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 09122007

 右ブーツ左ブーツにもたれをり

                           辻 桃子

語はもちろんブーツ。なにしろこの句にはブーツしか描かれていません。その単純明快さが、読んでいて頭の中をすっと気持ちよくしてくれます。我が家も私以外は女性ばかりなので、冬になるとよく、このような光景を目にします。ただでさえ狭いマンションの玄関の中に、所狭しと何足ものブーツがあっちに折れ曲がったりこっちに折れ曲がったりしています。そのあいだの狭いスペースを探して、わたしは毎夜靴を脱ぐ羽目になります。たかが玄関のスペースのことですが、どこか家の力関係を表しているようで、あまり気持ちのいいものではありません。最近はブーツを立てておくための道具も(かわいい動物の絵などが描かれているのです)できているようで、この折れ曲がりは、我が家では見ることがなくなりました。右ブーツが左ブーツにもたれているといっています。「折れ曲がる」でもなく「倒れる」でもなく「もたれる」ということによって、どこか人に擬しているように読めます。ブーツそのものが、そのまま女性を連想させ、そこから何か物語めいた想像をめぐらすことも可能です。しかしここは、単にブーツがブーツにもたれているという単純で、それだけにユーモラスな様子を頭に思い浮かべるだけでよいのかなと、思います。それでちょっと幸せで、あたたかな気持ちになれるのなら。『微苦笑俳句コレクション』(1994・実業之日本社)所載。(松下育男)


December 08122007

 見て居れば石が千鳥となりてとぶ

                           西山泊雲

鳥は、その鳴き声の印象などから、古くから詩歌の世界では、冬のわびしさと共に詠まれ、冬季となっている。しかし実際には、夏鳥や留鳥のほか、春と秋、日本を通過するだけの種類もいるという。海辺で千鳥が群れ立つのを見たことがある。左から右へ飛び立ち、それがまた左へ旋回する時、濃い灰褐色から白に、いっせいにひるがえる様はそれは美しかった。この句の千鳥は川千鳥か。作者が見て居たのは河原、そこに千鳥がいることを、あまり意識していなかったのかもしれない。突然、いっせいに飛び立った千鳥の群、本当に河原の石が千鳥となって、飛び立ったように見えたのだろう。句意はそうなのだろうと思いつつ、なんとなく、意識が石へ向いてしまった。子供の頃、生きているのは動物だけじゃないのですよ、草も木もみんな生きているのです、と言われ、じゃあ石は?と思ったけれど聞けなかった。生命は石から誕生し最後には石に還る、という伝説もあるという。半永久的な存在である石が、千鳥となって儚い命を持つことは、石にとって幸せなんだろうか、などと思いつつ、ふっと石が千鳥に変わる瞬間を思い描いてみたりもするのだった。「泊雲」所収。(今井肖子)


December 07122007

 吾子の四肢しかと外套のわれにからむ

                           沢木欣一

子は(あこ)。自分の記憶の中で一番古いものは四歳の時の保育園。ひとりの先生とみんなで相撲をとった。みんな易々と持ち上げられ土俵から出されたが、僕は先生の長いスカートの中にもぐりこんで足にしがみついた。先生は笑いながらふりほどこうとしたが、僕はしっかりと足に四肢をからめて離れず、ついに先生は降参した。このときの奮戦を先生は後に母に話したため、僕はしばらくこの話題で何度も笑われるはめになった。あのときしがみついた先生の足の感じをまだ覚えている。加藤楸邨の「外套を脱がずどこまでも考へみる」森澄雄の「外套どこか煉炭にほひ風邪ならむ」そして、この句。外套の句はどこか内省的で心温かい。澄雄も欣一も楸邨門で「寒雷」初期からの仲間。二人とも昔はこんなヒューマンな句を作っていたのだった。「寒雷」は「花鳥諷詠」の古い情趣や「新興俳句」の借り物のモダニズムの両者をよしとせずに創刊された。「人間探求」の名で呼ばれる「人間」という言葉が「ヒューマニズム」に限定されるのは楸邨「寒雷」の本意ではないが、それもまた両者へのアンチ・テーゼのひとつであったことは確かである。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)




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