寒くなりました。あの猛暑を思い出そうとしても、少しも思い出せません(笑)。(哲




2007ソスN11ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 24112007

 寒月や耳光らせて僧の群

                           中川宋淵

昧だった秋から、いきなり冬になってしまった感のある今年だが、中秋の名月、後の月ともに、月の美しさは印象に残るものだった。天心に白く輝く名月に比べ、しだいに青みを帯びてくる冬の月。枯木のシルエットの途切れた先に上る月は、凩に洗われ、星々の中にあって孤高である。そんな冬の月に、耳が照らされて光っているという。それも、僧の群。しかしその人数が多ければ多いほど、しんとした夜気を感じるのは、耳というポイントの絞り方が、はっきりとした映像を結ぶからか。臨済宗の僧侶だという作者。臨済宗は禅宗の一派なので、僧達は座禅を組んでいるのか、あるいは鉢を持って、長い廊下を僧堂へ向かって歩いているのか。いずれにしても見えてくるのは、一人一人の後ろ姿と、冴え冴えとした月光に照らし出されたかすかな白い息。臨済宗は仏心宗ともいわれ、心身を統一し、自らを内観することで、己の中にある仏を悟るのだという。修行の日々は、戒律の下の集団であっても、常に己と向き合い続けているのであり、その姿は、寒月のように孤高である。今日は、旧暦十月十五日、この冬最初の満月。次の満月はクリスマスイブなんだ、などと月のカレンダーを見つつ、歳時記の「冬の月」の項を読んでみた次第。『新日本大歳時記』(1999・講談社)所載。(今井肖子)


November 23112007

 捨布団あり寒林を戻るなり

                           森田公司

つも見ている風景でありながら風情(詩)を感じないから心に留めない一瞬が、僕らの一日の体験の大半を占める。たまに、ああ、いいなあと思う体験や視覚的カットは、やはり、みんなが同様にいいと思うそれである。それは発見ではなくて共感だろう。捨猫や捨案山子や捨苗には「詩」があり、捨布団や捨バッテリーや捨自転車にはないのだろうか。否、見えるもの、触れるもの、聞こえる音、みなそれぞれどんなものでも、生きている自分とのそのときその瞬間の触れ合いの中で意味を持つ。意識できないだけだ。こういう句を見るとそれをつくづく感じる。「写生」とは時、所、対象を選ばず僕らの前に現れる風景に自分の生を感じるということだ。講談社版『新日本大歳時記』(1999)所載。(今井 聖)


November 22112007

 風冴ゆる熱燗少し溢れ出る

                           江渡華子

曜日、東京では木枯らし1号が吹いた。気象庁のホームページによると、まず期間は10月半ばから11月末日まで。気圧配置が西高東低の冬型であること。関東地方(東京地方)に吹く強い季節風であることなど。これらの条件を満たすものが木枯らし1号と認定されるらしい。木枯らしが吹いたあと風は刺すように冷たくなってゆく。いよいよ本格的な冬の到来。熱燗、鍋のおいしい時期を迎える。居酒屋で継いでもらった酒が勢いあまっておちょこをつうと溢れでる。ときおり店の引き戸を揺する風の音が外の寒さを感じさせる。継いで継がれて話を重ねていくうちに、互いの言葉がお酒にぬくもった胸に少しずつ溶け出してゆく。透明にあふれ出る熱い酒と凍るほど冷たい風との取り合わせがよく効いている。そんな情景を考えてみると世情に通じた年齢の俳人が作ったように思えるが、作者は1984年生まれ。「布団干す故郷は雪が深いころ」「歯ブラシを変えた冬の風香る」これらの句からは遠くふるさとを離れてひとり都会で暮らす若い女性の気持ちがじかに伝わってくる。句集にはどこか老成した句と初々しい感性の句が混在しているが、どの句からも対象を見つめる作者のまっすぐな視線が感じられる。『光陰』(2007)所収。(三宅やよい)




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