ドラフト。大場はソフトバンク、長谷部は楽天が交渉権獲得。大成してくれよ。(哲




2007ソスN11ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 20112007

 さざんくわはいかだをくめぬゆゑさびし

                           中原道夫

茶花(さざんくわ)は冬の庭をふわっと明るくする。山で出会っても、里で出会っても、その可憐な美しさは際立っている。しかし掲句は「筏を組めぬ」という理由で寂しいという。確かに山茶花の幹や枝は、椿よりずっとほっそりしていて、おおよそ筏には向かないものだ。とはいえ、掲句の楽しみ方は内容そのものより、その伝わり方だろう。集中は他にも〈いくたびもあぎとあげさげらむねのむ〉〈とみこうみあふみのくにのみゆきばれ〉などがあり、そこにはひらがなを目で追っていくうちに、ばらばらの文字がみるみる風景に形づくられていく面白さが生まれる。生活のなかで、漢字の形態からくる背景は無意識のうちに刷り込まれている。目の前にあるガラス製の容器を「ビン」「瓶」「壜」と、それぞれが持つ異なるイメージのなかから、ぴったりくるものを選んで表記している。ひと目で誤解なく伝達されるように使用する漢字はまた、想像の振幅を狭めていることにも気づかされる。一方〈戀の字もまた古りにけり竃猫〉では、逆に漢字の形態を大いに利用してやろうという姿勢、また〈決めかねつ鼬の仕業はたまたは〉では、漢字とひらがなのほどよい調合が感じられ、飽きずに楽しめるテーマパークのような一冊だった。『巴芹』(2007)所収。(土肥あき子)

★「いかだ」は、花筏(桜の花びらが水面に散り、吹き寄せられて流れていく様子)の略だろう、とのご指摘をたくさんいただきました。「筏」と聞いて、ひたすら山茶花の細く混み合った枝ばかり思い描いてしまったわたくしでした。失礼しました。


November 19112007

 ふたりから離れ毛糸を編みはじむ

                           恒藤滋生

っかり見過ごしてしまいそうな句だが、なかなか面白いなと立ち止まらされてしまった。表面的な情景としては何の変哲もないのだけれど、しかしそれは不思議な心理的空間と重なっている。この不思議は、主として「ふたり」という曖昧な表現に起因するのだろう。読者には「ふたり」がどんな人たちなのか、男なのか女なのか、はたまた老若いずれなのかなども一切わからない。もちろん、関係も不明だ。つまりそれらのことを、作者は急に毛糸を編みはじめた人を通して垣間見せているわけで、この毛糸編む人の心理の忖度のしようによって、「ふたり」は何通りにも解釈できることになる。そこが掲句の不思議な味を醸し出している。毛糸を編むという行為は自分の殻に閉じこもるそれでもあるので、「ふたり」を離れた気持ちもわかるような気はするが、気がするだけで、そう簡単に結論が下せるものでもない。単に、編み上げる時間が迫っているだけかもしれないからだ。いずれにしても、この「ふたり」の存在があって、この句は奇妙な味を得ることになった。こんな「毛糸編む」(冬の季語)の句は、はじめてである。俳誌「やまぐに」(第11号・2007年11月発行)所載。(清水哲男)


November 18112007

 悲しみの目のきは立ちしマスクかな

                           老川敏彦

こ数年のことですが、町を歩いていて奇異に感じることの一つに、先のとがったマスクがあります。とくに花粉の季節には、マスクをしている人が、まるでみんなで口を尖らせて歩いているように見えるのです。そんな人が集団でいると、文明が確実に人の姿を変えつつあるのかと、たかがマスクひとつに、不安な思いがわいてきます。掲句のマスクはどちらなのでしょうか。冬の、風邪の季節のものであるならば、昔からある、口にぴたりと接触するタイプのものなのかもしれません。吐く息が布にあたってすぐに戻る、その温かみは、今は病の内にあるのだという思いを、マスクを通して確認させられているように感じます。句はいきなり、「悲しみ」という強い表現で始まっています。明確な、言い換えれば選択肢を狭める語を使用しています。ただ、語の意味は明確ですが、その分、語られている対象は隠されているというわけです。目が感情を表すのは言うまでもないことです。しかし、顔の、ほかの部分を隠すことによって、目が表現しようとしている「悲しみ」が、さらに鮮明に表れてくることを、この句は語っています。隠すことによって、あるいは語らないことによって、より深い表現を獲得する。創作の不思議さを、感じさせる句でもあります。『現代俳句歳時記』(1993・新潮社)所載。(松下育男)




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