偽名古屋コーチンが出回っているようだ。昔は何の変哲もない普通の鶏だった。(哲




2007ソスN11ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 16112007

 寒鮒のあを藻ひとすぢからみたる

                           篠田悌二郎

の引きは独特。長く細いウキが単純に一気に潜る釣堀で釣るヘラ鮒ではなく、「野生」の真鮒の話である。真鮒はウキがまずちょんちょんと上下し、やがて横につうと動き、そこから一気に潜る。潜るまでに竿を上げると逃げられる。この横に動くところがなんとも言えずスリリングで鮒釣りにはまるのである。生まれて初めて竿で魚を釣ったのが、小三のとき。鳥取市の城跡のお堀でクチボソがかかってくれた。それまでは、タモを水中や泥の中で振り回しての小えびやメダカやトンボのヤゴが獲物だった。掻き回すからタモはすぐ破れ壊れる。何度も補修を重ねて、タモはたちまち網の部分が小さくなった。腰の辺りまで泥に没しての大奮闘からクチボソを竿で釣るまで三年かかった。そこからシマミミズを用いての鮒釣りまでに二年。クチボソ三年鮒五年。鮒はアタマがいいので、釣る方の成長も必要なのであった。寒鮒は水温が低いため、底の方にじっとしている。それを釣り上げるから「あを藻」がからむ。この「あを藻」が映像の焦点。リアリティの根源である。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


November 15112007

 練乳の沼から上がるヌートリア

                           小池正博

年前だったか小春日和の川べりを歩いているときに巨大ネズミのような生き物が川面にぬっと顔を突き出したので、心臓がずり落ちるほど驚いたことがある。後で調べてヌートリアという名前を初めて知った。関西や中国圏に多く住んでいるらしいが、もともと軍事用の毛皮をとるために移入して養殖された帰化生物ということだ。「ヌートリアと冬日を分かち合ひにけり」と大阪に住む俳人ふけとしこが詠んでいる。今は作物を荒らしたり堤防に巣穴を作ったりして危険ということで、駆除の対象になっているらしい。人間の勝手で移入されて、生態系に害を与えると駆除される。沖縄のマングースをはじめ、人間の浅知恵に振り回されて生きる動物たちも楽ではない。ねっとりと白く汚染された練乳のような沼から顔を出すヌートリア。まったく私たちの生きる世の中だって練乳の沼と同じぐらい底の見えない鬱屈に覆われた場所なのだから、お互いさまと言ったところか。沼から上がるヌートリアの姿に実在感がある。作者は連句に造詣の深い川柳作家。俳人の野口裕と立ち上げた冊子「五七五定型」からは同じ韻律をもつ詩型を従来にない視点で捉えようとする二人の意欲が伝わってくる。「五七五定型」(第2号2007/11/10発行)所載。(三宅やよい)


November 14112007

 柿ひとつ空の遠きに堪へむとす

                           石坂洋次郎

多分にもれず、私も高校時代に「青い山脈」を読んだ。あまりにも健康感あふれる世界だったことに、むしろくすぐったいような戸惑いを覚えた記憶がある。今の若者は「青い山脈」も石坂洋次郎の名前も知らないだろう。秋も終わりの頃だろうか、柿がひとつ枝にぽつりととり残されている。秋の空はどこまでも高く澄みきっている。それを高さではなく「空の遠き」と距離でとらえてみせた。柿がひとつだけがんばって、遠い空に堪えるがごとくとり残されているという風景である。とり残された柿の実にしてみれば、悠々として高見からあたりを睥睨しているわけではなく、むしろ孤独感に襲われているような心細さのほうが強いのだろう。しかも暮れてゆく秋は寒さが一段と厳しくなっている。その柿はまた、売れっ子だった洋次郎にとってみれば、文壇にあって、ときに何やら孤独感に襲われるわが身を、空中の柿の実に重ねていたようにも考えられる。よく聞く話だが、柿をひとつ残らず収穫してしまうのではなく、二、三個枝に残したままにする。残したそれらは鳥たちが食べる分としてつつかせてやる――そんなやさしい心遣いをする人もあるという。近年は鈴なりの柿も、ハシハシと食べる者がいなくなって、熟柿となって一つ二つと落ちてしまう。田舎でも、そんなことになっているようだ。ところで、寺田寅彦にかかると「柿渋しあはうと鳴いて鴉去る」ということになる。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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