小規模農家の補助金拡充へと自民党。選挙目当てがミエミエだ。情けない。(哲




2007ソスN11ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 15112007

 練乳の沼から上がるヌートリア

                           小池正博

年前だったか小春日和の川べりを歩いているときに巨大ネズミのような生き物が川面にぬっと顔を突き出したので、心臓がずり落ちるほど驚いたことがある。後で調べてヌートリアという名前を初めて知った。関西や中国圏に多く住んでいるらしいが、もともと軍事用の毛皮をとるために移入して養殖された帰化生物ということだ。「ヌートリアと冬日を分かち合ひにけり」と大阪に住む俳人ふけとしこが詠んでいる。今は作物を荒らしたり堤防に巣穴を作ったりして危険ということで、駆除の対象になっているらしい。人間の勝手で移入されて、生態系に害を与えると駆除される。沖縄のマングースをはじめ、人間の浅知恵に振り回されて生きる動物たちも楽ではない。ねっとりと白く汚染された練乳のような沼から顔を出すヌートリア。まったく私たちの生きる世の中だって練乳の沼と同じぐらい底の見えない鬱屈に覆われた場所なのだから、お互いさまと言ったところか。沼から上がるヌートリアの姿に実在感がある。作者は連句に造詣の深い川柳作家。俳人の野口裕と立ち上げた冊子「五七五定型」からは同じ韻律をもつ詩型を従来にない視点で捉えようとする二人の意欲が伝わってくる。「五七五定型」(第2号2007/11/10発行)所載。(三宅やよい)


November 14112007

 柿ひとつ空の遠きに堪へむとす

                           石坂洋次郎

多分にもれず、私も高校時代に「青い山脈」を読んだ。あまりにも健康感あふれる世界だったことに、むしろくすぐったいような戸惑いを覚えた記憶がある。今の若者は「青い山脈」も石坂洋次郎の名前も知らないだろう。秋も終わりの頃だろうか、柿がひとつ枝にぽつりととり残されている。秋の空はどこまでも高く澄みきっている。それを高さではなく「空の遠き」と距離でとらえてみせた。柿がひとつだけがんばって、遠い空に堪えるがごとくとり残されているという風景である。とり残された柿の実にしてみれば、悠々として高見からあたりを睥睨しているわけではなく、むしろ孤独感に襲われているような心細さのほうが強いのだろう。しかも暮れてゆく秋は寒さが一段と厳しくなっている。その柿はまた、売れっ子だった洋次郎にとってみれば、文壇にあって、ときに何やら孤独感に襲われるわが身を、空中の柿の実に重ねていたようにも考えられる。よく聞く話だが、柿をひとつ残らず収穫してしまうのではなく、二、三個枝に残したままにする。残したそれらは鳥たちが食べる分としてつつかせてやる――そんなやさしい心遣いをする人もあるという。近年は鈴なりの柿も、ハシハシと食べる者がいなくなって、熟柿となって一つ二つと落ちてしまう。田舎でも、そんなことになっているようだ。ところで、寺田寅彦にかかると「柿渋しあはうと鳴いて鴉去る」ということになる。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 13112007

 靴と靴叩いて冬の空青し

                           和田耕三郎

の空はどこまでも青い。右足と左足の靴を両手に持って、ぽんと叩いて泥を落とす。この日常のなにげない行為の背景には、晴天、散歩、健康、平和と、どこまでも安らかなイメージが湧いてくる。童謡では「おててつないで野道を行けば(中略)晴れた御空に靴が鳴る」と跳ねるような楽しさで歌われ、「オズの魔法使い」ではドロシーが靴のかかとを三回鳴らしてカンザスの自宅に無事帰る。どちらも靴が音を立てる時は「お家に帰る」健やかなサインであった。本書のあとがきで、作者は2004年に脳腫瘍のため手術、翌年再発のため再手術とあり、二度の大病を経て、現在の日々があることを読者は知ってしまう。青空から散歩や健康が、乾いたペンキのようにめくれ上がり、はがれ落ち、まだらになった空の穴から、もっと静かな、献身的な青がにじみ出てくる。作者は靴を脱ぎ、そこに戻ってきた。真実の青空はほろ苦く、深い。〈拳骨の中は青空しぐれ去る〉〈空青し冬には冬のもの食べて〉『青空』(2007)所収。(土肥あき子)




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