うひゃあ、中日が予想以上の大勝だ。こうなると日ハムがんばれと言いたくなる。(哲




2007ソスN10ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 31102007

 無駄だ、無駄だ、/大雨が/海のなかへ降り込んでいる

                           ジャック・ケルアック

藤和夫訳。原文は「Useless,useless,/theheavyrain/Drivingintothesea」の三行分かち書きである。特に季語はないけれど、秋の長雨と関連づけて、この時季にいれてもよかろう。たしかに海にどれほどの大雨や豪雨が降り込んだところで、海はあふれかえるわけではなく、びくともしない。それは無駄と言えば無駄、ほとんど無意味とも言える。ケルアックは芭蕉や蕪村を読みこんでさかんに俳句を作った。アレン・ギンズバーグ同様に句集もあり、アメリカのビート派詩人の中心的存在だった。掲出句を詠んだとき、芭蕉の「暑き日を海に入れたり最上川」がケルアックの頭にあったとも考えられる。この「無駄だ・・・」は、単に海に降りこむ大雨の情景を述べているにとどまらず、私たちが日常よくおかすことのある「無駄」の意味を、アイロニカルにとらえているように思われる。その「無駄」を戒めているわけでも、奨励しているわけでもなさそうだけれども、「無駄」を肯定している精神を読みとらなくてはなるまい。この句はケルアックの『断片詩集(ScatteredPoems)』に収められている。同書で俳句観をこう記している。「(俳句は)物を直接に指示する規律であり、純粋で、具象的で、抽象化せず、説明もせず、人間の真のブルーソングなのだ」。これに対し、自分たちビート派の詩は「新しくて神聖な気違いの詩」と言って憚らないところがおもしろい。佐藤和夫『海を越えた俳句』(1991)所載。(八木忠栄)


October 30102007

 冷まじや鏡に我といふ虚像

                           細川洋子

まじは「すさまじ」。具体的な冷気とともに、その語感から不安や心細さなどを引き連れてくる。「涼しい」より荒々しく、「寒い」より頼りない季節の隙間には、この時期だけそっと鏡に映ってしまう何かがあるのではないかと思わせる。鏡は見る者の位置、微妙な凹凸などによって、真実の姿であるにもかかわらず、さまざまな像を結ぶ。鏡(ミラー)と不思議(ミラクル)とが密接な関係を持つといわれているように、この目も鼻も本当の顔とはまったく別のものが映っているように思えてくる。掲句の作者もまた、鏡に映し出された姿を漠然とよそよそしく感じながら、我が身を見つめているのだろう。右手を上げれば向かい合う左手が上がり、右目をつぶれば向かい合う左目がウインクする。それはまるで動作を真似るゲームのなかで、向こう側の人が慌てて動かしているように見えてくる。人間でもこんがらがってくるこの現象に動物は一体どう対処するのだろう。イソップ物語に登場する肉をくわえた犬の話しを思い出し、飼い猫に鏡を見せてみると、においを嗅いだり、引っ掻いたり、しきりに裏側に行きたがる。目の前にいる動くものが、まさか自分だとはまったく思っていないようだが、手出しせずすぐに引っ込む相手に勝ち誇った様子であった。猫にとっては、鏡の向こう側に住む無害の生き物として認知したのかもしれない。『半球体』(2005)所収。(土肥あき子)


October 29102007

 稲無限不意に涙の堰を切る

                           渡辺白泉

の句について福田甲子雄は「昭和三十年の作であることを考えて観賞しなければならないだろう」と、書いている。そのとおりだとは思うが、しかし福田が言うような「食糧事情の悪さ」が色濃く背景にあるとは思わない。「稲無限」はどこまでも連なる実った稲田を指しており、そのことが作者に与えたのは、豊饒なる平和感覚だったのではなかろうか。戦前には京大俳句事件に関わるなど、作者は大きな時代の流れに翻弄され、またそのことを人一倍自覚していたがゆえに、若い頃からの生活は常にある種の緊張感を伴わざるを得なかったのだろう。それが戦後もようやく十年が経ち、だんだんと世の中が落ち着きはじめたころ、作者にもようやく外界に対する身構えの姿勢が溶けはじめていたのだと思われる。そんな折り、豊かに実った広大な稲田は、すなわち平和であることの具体的な展開図として作者には写り、そこで一挙にそれまでの緊張の糸が切れたようになってしまった。この不意の「涙」の意味は、そういうことなのではあるまいか。ここで作者は過去の辛さを思い出して泣いたというよりも、これは思いがけない眼前の幸福なイメージに愕然として溢れた涙なのだと私には感じられる。長年の肩の力が一挙にすうっと抜けていくというか、張りつづけてきた神経の関節が外れたというか……。。そんなときにも、人は滂沱の涙を流すのである。福田甲子雄『忘れられない名句』(2004)所載。(清水哲男)




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