吉祥寺の書店を探しに探して藤原智美『暴走老人!』を買った。もう三刷だった。(哲




2007ソスN10ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 19102007

 がちやがちやに夜な夜な赤き火星かな

                           大峯あきら

夜同じ虫が同じところで鳴く。巣があるのか、縄張りか。がちゃがちゃの微かだが特徴のある声が聞こえ、夜空には赤い大きな火星が来ている。俳句は瞬間の映像的カットに適した形式だと言われているが、この句の場合はある長さの時間を効果的に盛り込んでいる。加藤楸邨の「蜘蛛夜々に肥えゆき月にまたがりぬ」と同じくらいの時間の長さ。この句、字数が十七。十七音定型を遵守した場合での最大、最長の字数になる。句は意味内容の他に、リズムや漢字、ひらがななどの文字選択、そして字数もまた作品の成否に関わる要素になる。音が同じで字数が少なければ一句は緊縮した印象を与え、字数が混んでいれば叙述的な印象を与える。がちゃがちゃという言葉が虫の名を離れてがちゃがちゃした「感じ」を醸し出すのもこの字数の効果だ。一句の中で文字ががちゃがちゃしているのである。十七音を遵守した上で、最少の字数で作ってみようとしたことがある。九字の句は作れたが、それが限度だった。もちろん内容が一番肝心なのだが。『牡丹』(2005)所収。(今井 聖)


October 18102007

 柿を見て柿の話を父と祖父

                           塩見恵介

の家にいっぱい実った柿がカラスの餌食になってゆく。柔らかく甘い果物が簡単に買える昨今、庭の柿の実をもいで食べる人は少ないのだろうか、よその家の柿を失敬しようとしてコラッと怒られるサザエさんちのカツオのような少年もいなくなってしまった。地方では嫁入りのときに柿の苗木を持参して嫁ぎ先の庭に植え、老いて死んではその枝で作った箸で骨を拾われるという。あの世へ行った魂が家の柿の木に帰ってくるという伝承もあるそうだ。地味で目立たないけど庭の柿はいつも家族の生活を見守っている。春先にはつやつや光る柿若葉が美しく、白く小さな花をつけたあとには赤ちゃんの握りこぶしほどの青柿が出来る。柿の実が赤く色づく頃、普段はあまり言葉のやりとりがない父と祖父が珍しく肩を並べて柿の木を見上げながら何やら嬉しそうに話している。「今年は実がようなったね」「夏が暑いと、実も甘くなるのかねぇ」というように。夫婦や親子の会話はそんな風にさりげなくとりとめのないものだろう。掲句には柿を見て柿の話をしている父と祖父、その様子を少し距離を置いて見ている作者と、柿を中心にしっとりつながる家族の情景を明るく澄み切った秋の空気とともに描きだしている。『泉こぽ』(2007)所収。(三宅やよい)


October 17102007

 あ そうかそういうことか鰯雲

                           多田道太郎

太郎が、余白句会(1994年11月)に初めて四句投句したうちの一句である。翌年二月の余白句会に、道太郎ははるばる京都宇治から道を遠しとせずゲスト参加し、のちメンバーとなった。当時の俳号:人間ファックス(のち「道草」)。掲出句は句会で〈人〉を一つだけ得た。なぜか私も投じなかった。ご一同わかっちゃいなかった。その折、別の句「くしゃみしてではさようなら猫じゃらし」が〈天〉〈人〉を獲得した。私は今にして思えば、こちらの句より掲出句のほうに愛着があるし、奥行きがある。いきなりの「あ」にまず意表をつかれた。そして何が「そうか」なのか、第三者にはわからない。つづく「そういうことか」に到って、ますます理解に苦しむことになる。「そういうこと」って何? この京の都の粋人にすっかりはぐらかされたあげく、「鰯雲」ときた。この季語も「鯖雲」も同じだが、扱うのに容易なようでいてじつは厄介な季語である。うまくいけば決まるが、逆に決まりそうで決まらない季語である。道太郎は過不足なくぴたりと決めた。句意はいかようにも解釈可能に作られている。そこがしたたか。はぐらかされたような、あきらめきれない口惜しさ、拭いきれないあやしさ・・・・七十歳まで生きてくれば、京の都の粋人にもいろんなことがありましたでしょう。はっきりと何も言っていないのに、多くを語っているオトナの句。そんなことどもが秋空に広がる「鰯雲」に集約されている。「うふふふ すすき一本プレゼント」他の句をあげて、小沢信男が「この飄逸と余情。初心たちまち老獪と化するお手並み」(句集解説)と書く。老獪じつに老獪を解す! 信男の指摘は掲出句にもぴったしと見た。『多田道太郎句集』(2002)所収。(八木忠栄)




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