ロッテ、CS第1ステージまず1勝。ホームで試合ができない三位は辛いよ。(哲




2007ソスN10ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 09102007

 止り木も檻の裡なり秋時雨

                           瀧澤和治

週末あたりから金木犀の香りが漂うようになったが、せっかくの香りを流してしまうような雨が続いている。颱風の激しさのなかの9月の雨とも、冬の気配を連れてくる11月の雨とも違う10月の雨は、さみしさの塊がぐずぐずとくずれていくように降り続ける。掲句の季題である「秋時雨」にも、「春時雨」の持つ明るさや、冬季の「時雨」が持つ趣きとは別の、心もとない侘しさが感じられる。静かに降り続ける雨のなかで、檻の裡(うち)を見つめる作者。タカやハヤブサ、あるいはフクロウなどの猛禽の名札が付いているはずの檻のなかに、生き物の姿はどこにもない。ただ止り木が描かれているだけだ。そしてそれこそが痛みの源として存在している。翼を休めるための止まり木が渡されてはいても、はばたく大空はそこにはないのだから。ドイツの詩人リルケは「豹」という作品で、檻の内側で旋回運動を続ける豹の姿をひたすら正確に書きとめることで生命の根拠を得たが、掲句では檻のなかの生き物をひたすら見ないことで、いのちの存在を際立たせた。『衍』(2006)所収。(土肥あき子)


October 08102007

 流星やいのちはいのち生みつづけ

                           矢島渚男

語は「流星(りゅうせい)」で秋。流れ星のこと。流星は宇宙の塵だ。それが何十年何百年、それ以上もの長い間、暗い宇宙を漂ってきて地球の大気圏に入ったときに、燃えて発光する。そして、たちまち燃え尽きてしまう。この最期に発光するという現象をとらまえて、古来から数えきれないほどの詩歌の題材になってきたわけだが、その多くは、最後の光りを感傷することでポエジーを成立させてきた。たとえば俳句では「死がちかし星をくぐりて星流る」(山口誓子)だとか「流れ星悲しと言ひし女かな」(高浜虚子)だとかと……。しかし、この句は逆だ。写生句だとするならば、作者が仰いでいる空には、次から次へと流星が現れていたのかもしれない。最期に光りを放ってあえなく消えてゆく姿よりも、すぐさま出現してくる次の星屑のほうに心が向いている。流星という天体現象は、生きとし生けるもののいわば生死のありようの可視化ともいえ、それを見て生者必滅と感じるか、あるいは生けるものの逞しさと取るのか。どちらでももとより自由ではあるが、あえて後者の立場で作句した矢島渚男の姿勢に、私などは救われる。みずからの遠くない消滅を越えて、類としての人間は「いのち」を生みつづけてゆくであろう。このときに、卑小な私に拘泥することはほとんど無意味なのではないか。そんなふうに、私には感じられた。うっかりすると見逃してしまいそうな句だが、掲句はとても大きいことを言っている。『百済野』(2007)所収。(清水哲男)


October 07102007

 眼鏡はづして病む十月の風の中

                           森 澄雄

の句に「病む」の一語がなければ、目を閉じてさわやかな十月の風に頬をなぶらせている人の姿を想像することができます。たしかに十月というのは、暑さも寒さも感じることのない、わたしたちに特別に与えられた月、という印象があります。澄んだ空の下を、人々は活動的に動きまわることができます。そんな十月に、句の中の人は病んでいるというのです。季節の鮮やかさの中で、病と向きあわざるをえないのです。そこには、めぐり来る季節との、多少の違和感があるのかもしれません。病院の帰り道、敷地内につくられた花壇のそばの道で、句の人は立ち止まります。立ち尽くした場所で、明るい風景から目をそらすように、ゆっくりと眼鏡を外します。医者に言われた言葉を思い出しながら、これからこの病とどのように折り合ってゆこうかと、風の中でじっと考えているのです。病を持つことによって、この季節の中にいることの大切さが、よりはっきりと見えてくるようです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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