十月。急に涼しくなってきたこともあって、なんとなく心細い感じの月初めです。(哲




2007ソスN10ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 01102007

 秋灯目だけであくびしてをりぬ

                           田中久美子

わず、笑わされてしまった。ありますねえ、こういうことって……。この句の主体は作者だろうか、それとも他者だろうか。どちらでも良いとは思うけれど、後者のほうがより印象的になる。他者といっても、もちろん家族ではないだろう。多少とも、他人に気を使わなければならない場所での目撃句だ。たとえば会社での残業だとか、夜の集会だとか、そういったシチュエーションが考えられる。懸命に眠さをこらえている様子の人がいて、気になってそれとなく見やると、欠伸の出そうな口元のあたりをとんとんと軽く叩きながらも、しかし「目」は完全に欠伸をしてしまっていると言うのである。涼しい秋の夜の燈火は、人の目を冴えさせるというイメージが濃いのだが、それだけに、逆にこの句は説得力を持つ。「秋灯(あきともし)」といういささかとり澄ましたような季語に、遠慮なく眠さを持ってきた作者の感性は鋭くもユニークだ。かつて自由詩を書いていた田中久美子が、このような佳句をいくつも引っさげて戻ってきたことを、素直に喜びたい。そのいくつか。〈夢ばかり見てゐる初夢もなく〉〈一筆のピカソ一生涯の蜷〉〈太テエ女ト言ハレタ書イタ一葉忌〉『風を迎へに』(2007)所収。(清水哲男)


September 3092007

 口中へ涙こつんと冷やかに

                           秋元不死男

語は「冷やか」です。秋、物に触れたときなどの冷たさをあらわしています。しかし、この句が詠んでいるのはどうも、秋の冷やかさというよりも、個人的な出来事のように感じられます。なにがあったのかはわかりませんが、目じりから流れ出た涙が、頬を伝い、口へ入ってゆくことに不思議はありません。しかし、口をわざわざ「口中」と言っているところを見ると、かなりの量の涙が口の中へ落ちていったようです。それにしても、「こつん」という擬声語がここに出てくることには、ちょっと驚きます。そもそもこの「こつん」という語は、かたい物が当たってたてる音です。作者はそれを知って使っているわけですから、作品への思いいれは、この語に集中していると言えます。涙をかたいものとして感じる瞬間、というのはどのような場合なのでしょうか。涙さえかたいものとして感じるほどに、頬も、口の中も、敏感になっているということなのでしょうか。もしそうならば、あながち「冷やかに」が季節と無縁とは言い切れません。自身の存在を、季節の移ろいのようにやるせなく感じる時、湧き出た涙はその人にとって、かたく感じるものなのかもしれません。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


September 2992007

 一人湯に行けば一人や秋の暮

                           岡本松濱

週鑑賞した千代尼の句の出典として、この『岡本松濱句文集』を開いた。婦人と俳句、という題名で書かれたその一文は興味深く、千句あまりの松濱本人の句も読み応えがある。これはその中の一句なのだが、初めに読んだ時、銭湯に行く作者を思い浮かべた。日々の暮らしの中の、それほど深刻ではないけれど、しんみりとした気分。話し声、湯をかける音が反響する銭湯で、他の客に混じってぼんやり湯に浸かっている、どこかもの寂しい秋の夕暮、と思ったのだった。そうすると、行けば、がひっかかるかな、と思いつつ、句集を読み終え、飯田蛇笏、渡辺水巴の追悼文を読み進み、そして野村喜舟の文章を読んだところで、それは勘違いと分かった。この時、松濱は東京で妻と二人暮らし。喜舟が初めてその家を訪ねた時、ちょうど妻が銭湯へ行っていて一人であったという。それを聞いて、喜舟は、この句を思い出した、と述懐している。そういうことか。そう思って読むと、ふっと一人になった作者は、灯りもつけずに見るともなく窓の外を見ていると思えてくる。しんとした二人暮らしの小さな家のたたずまいと共に、暮れ残る空の色が浮かぶのだった。申し訳なし。句集に並んで〈仲秋や雲より軽き旅衣〉。仲秋の名月も満月も、美しい東京だった。「岡本松濱句文集」(1990・富士見書房)所載。(今井肖子)




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